斜め上の回答
斜め上の回答
知恵の試練の場は、天空の闘技場の中央に浮かぶ白い祭壇だった。
セラフィオンが祭壇の上から見下ろしている。三対の翼が静かに明滅し、金色の瞳の中で幾何学模様がゆっくりと回転していた。
ヴァルゼンは祭壇の反対側に立たされていた。立たされて、というか、ここ以外に逃げ場がなかった。天空の闘技場には出口がない。左右は虚空。後ろも虚空。前にはセラフィオン。詰みだった。
(どう考えても逃げられない。ていうか、さっきの武力の試練で0.3秒で吹っ飛ばされたばかりなのに、もう次? 休憩は? 休憩という概念はこの神使にはないの?)
「魔王ヴァルゼン」
セラフィオンの声が、感情のない音色で響いた。
「知恵の試練を始める。汝に問う」
ヴァルゼンは生唾を飲んだ。知恵。知恵の試練。武力よりはまだマシかもしれない。少なくとも物理的に吹き飛ばされることはないはずだ。たぶん。おそらく。きっと。
「世界を救う唯一の方法を述べよ」
場が静まり返った。
(——は?)
ヴァルゼンは瞬きした。二度、三度と瞬きした。
(世界を救う、唯一の方法? いや、待って。何その問題。範囲が広すぎない? そんなの僕にわかるわけないだろ)
観客席——精霊たちが浮遊する観覧エリアから、ざわめきが漏れた。武力の試練で0.3秒敗北を遂げた存在が、知恵の試練でどう出るのか。精霊たちの好奇心が渦巻いていた。
パーティメンバーの姿が、観客席の最前列に見えた。
「ふむ……」
フェリクスが顎に手を当てていた。モノクルの奥の瞳が鋭く光る。
「あえて長考に入ったか。知恵の試練で即答しないのは、出題者の意図そのものを読もうとしている証拠だ」
(読んでない! 何も読めてない! 本気でわからないから固まってるだけだ!)
エルヴィンが腕を組み、満足げに頷いた。
「さすがヴァルゼンだな。焦る素振りすら見せない。やはり格が違う」
(焦ってる! めちゃくちゃ焦ってる! 内臓がひっくり返りそうなくらい焦ってる!)
ヴァルゼンの脳内は高速で空転していた。世界を救う方法。唯一の方法。何だ。何なんだ。虚淵を止めること? でもどうやって? 魔力循環を直すこと? でもそんな知識は持っていない。正解がまったく見えない。
(そもそも「唯一の」って何だ。唯一の正解があるのか? そんなの神様にしかわからないだろ。いや、神の使いが目の前にいるけど、この人が出してる問題だし)
沈黙が長引いた。
セラフィオンは微動だにしなかった。金色の瞳がヴァルゼンを射抜くように見つめている。そこには焦りも苛立ちもない。超然とした、ただ「観る」者の目だった。
やがて、ヴァルゼンは口を開いた。
「あの、一つ聞いていいですか」
セラフィオンの瞳の中で、幾何学模様がわずかに揺れた。
「……問いに問いで返すのか」
「すみません。でも、どうしてもわからないんです」
ヴァルゼンの声は震えていた。けれど、嘘はなかった。
「世界を救う唯一の方法なんて、僕にはわかりません」
場がざわついた。精霊たちがさざめく。観客席でエルヴィンが目を見開き、グリゼルダの眉が跳ね上がった。
だが、ヴァルゼンは続けた。震える声のまま、しかし目を逸らさずに。
「でも——誰かに聞けばいいんじゃないですか?」
セラフィオンの翼が、一瞬だけ強く光った。
「僕よりずっと賢い仲間がいます。フェリクスは僕なんかより百倍は頭がいいし、エルヴィンは僕が思いつかないようなことを平気でやってのけるし、グリゼルダは戦いのことなら何でも知ってるし、ミラベルは僕が見落とすことに気づいてくれるし……」
声が少しだけ、ほんの少しだけ安定した。
「僕一人じゃ世界なんて救えません。そんな知恵は持ってません。でも、みんなに聞くことはできます。みんなで考えれば、僕一人よりずっといい答えが出ると思うんです」
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙だった。
そしてその沈黙を最初に破ったのは、フェリクスだった。
「——集合知への信頼」
賢者の声は、震えていた。知恵の試練で「わからない」と答える。それは本来、敗北だ。しかしフェリクスの頭脳は、その「敗北」の奥に途方もない深さを読み取っていた——読み取ってしまっていた。
「一人の英知を超え、万人の知を統べる思想。自らの無知を認めることで、無限の知に接続する。それは——」
フェリクスのモノクルが光を反射した。
「万知の王だ」
(万知の何?)
ヴァルゼンは固まった。
「ヴァルゼンさん……」
ミラベルの目から、涙がこぼれていた。いつものことだった。ミラベルは何かとすぐ泣く。だがその涙には、いつにない感動の色が滲んでいた。
「自分の弱さを認めて、仲間を信じるなんて……なんて、なんて深い知恵なんでしょう……!」
(深くない! 本当にわからなかったから正直に言っただけだ!)
「さすがだ、ヴァルゼン!」
エルヴィンが立ち上がり、拳を突き上げた。目が輝いている。何がさすがなのかはエルヴィン自身もわかっていなかったが、とにかくさすがだった。ヴァルゼンがやることは全てさすがなのだ。
グリゼルダは無言だった。だが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。武力で0.3秒敗北し、知恵の問いに「わからない」と答え——それでも堂々としている(ように見える)主の姿に、武人として何かを感じたようだった。
ザガンだけが、腕を組んだまま黙っていた。
(……「わからないから聞く」が正解になるのか。この魔王の周りでは、常識が通用しない)
そして——セラフィオン。
神使は沈黙していた。金色の瞳が、幾何学模様ごと凍りついたように動かなかった。三対の翼が不規則に明滅している。
やがて、セラフィオンは口を開いた。
「その回答は——想定になかった」
声が、わずかに揺れていた。
世界創生期から存在し、歴代の魔王を観測し続けてきた神使が。数千年分の知識と経験を持つ存在が。たった一言で沈黙させられていた。
「知恵の試練において、『わからない』と答えた者は、過去にも存在する」
セラフィオンの声が、超然とした平坦さを取り戻そうとして——取り戻しきれなかった。
「だが——『わからないが、誰かに聞けばいい』と答えた者は、一人もいない」
精霊たちのさざめきが、波のように広がった。天空の闘技場全体が、奇妙な興奮に包まれ始めていた。
ヴァルゼンは、その場にぽつんと立ち尽くしていた。
(あの、どういうこと? 僕、合格なの? 不合格なの? 誰か教えてほしいんですけど)
セラフィオンの翼が、ゆっくりと折りたたまれた。
「……試練設計者として、認めねばならぬことがある」
金色の瞳が、まっすぐにヴァルゼンを射抜いた。
「この問いの想定解は、汝の回答によって——無意味になった」
それは、試練を課した側の敗北宣言だった。




