セラフィオンの困惑
セラフィオンの困惑
天空の闘技場の最上層に、セラフィオンの私室があった。
私室といっても、神使に人間のような居住空間は不要だ。白い石の壁に囲まれた空間に、観測用の水晶球が一つ浮かんでいるだけ。窓はなく、代わりに壁面全体が半透明で、外の景色が淡く透けて見えた。
セラフィオンは水晶球の前に佇んでいた。三対の翼が不規則に明滅を繰り返している。金色の瞳の幾何学模様は、先ほどから回転速度が安定しない。
「……理解できぬ」
声は、独り言だった。
数千年にわたって歴代の魔王を観測してきた。初代から先代まで、十二人の魔王を記録した。全員が圧倒的な戦闘力を持ち、武力の試練では神獣と渡り合い、己の力を証明してきた。
最短でも半刻。それが記録だった。
〇・三秒は、記録を更新したのではない。記録の概念そのものを破壊していた。
「我の観測に誤りはない」
水晶球に手をかざした。ヴァルゼンの魔力量が数値として浮かび上がる。
E級。最底辺。ゴブリンの平均値にすら届かない。戦闘適性は皆無。身体強化もできない。攻撃魔法は暴発するか不発。
データは明確だった。ヴァルゼンは弱い。疑いようもなく弱い。
ならば、なぜ——
付き人の精霊が、光の粒子を纏って現れた。小柄な姿形をした上位精霊で、セラフィオンの記録係を務めている。
「セラフィオン様。闘技場の記録をまとめましたが……」
「報告せよ」
「はい。武力の試練の結果について、観覧していた精霊群から非公式の評価が届いております。評価内容は——『武を超越した存在』『暴力の否定による新しい強さの提示』『歴代で最も深遠な試練への回答』——」
「それは事実か」
付き人が言葉に詰まった。
「事実かと問われますと……観測上の事実は『〇・三秒で一方的に敗北した』ですが、解釈としては——」
「解釈が事実を上書きしている」
セラフィオンの声が、わずかに硬くなった。
それこそが問題だった。ヴァルゼンの周囲では、常にこれが起きている。客観的な事実と周囲の解釈が一致しない。しかも解釈の方が広まり、定着し、やがて新しい事実になる。
数千年の観測で、こんな現象は初めてだった。
「歴代の魔王は、力で秩序を示した。力があるから従わせた。力があるから信頼された。それが摂理だ」
セラフィオンは翼を畳んだ。珍しいことだった。翼を完全に畳むのは、思考に没頭するときだけだ。
「あの者には力がない。にもかかわらず、周囲が従い、信頼し、崇めている。これは——秩序の法則に反している」
「しかし、結果として秩序は生まれておりますが」
付き人の言葉に、セラフィオンの翼がばさりと開いた。
「だから理解できぬと言っている」
声に苛立ちが混じった。神使が苛立つこと自体が異例だった。付き人の精霊が目を丸くしている。
セラフィオンは自分の声の調子に気づき、一つ呼吸を置いた。感情の制御。神使の基本だ。
「……あの者たちの反応を再確認する。勇者、女騎士、賢者、僧侶、そして元参謀。全員がヴァルゼンの敗北を敗北と認識していない」
「はい。各人の解釈をまとめますと——」
「不要だ。すでに記録した」
問題は解釈の内容ではない。なぜそのような解釈が生まれるのか、だ。
単なる盲信ではない。セラフィオンの観測眼はそれを見抜いていた。あの者たちはヴァルゼンの弱さを——少なくとも部分的には——理解している。理解した上で、なお信頼している。
特にザガン。あの男は明らかにヴァルゼンの戦闘力が最底辺であることを知っている。知った上で仕えている。
それは、理屈で説明できることなのか。
「次の試練で、この者の真価が見える」
セラフィオンは水晶球に手をかざし直した。
「……はずだ」
その語尾の不確かさに、付き人の精霊は驚いた。セラフィオンが断言を避けることなど、数千年の付き合いで初めてだった。
「セラフィオン様」
「何だ」
「翼が——かなり激しく明滅しております」
セラフィオンが自分の翼を見下ろした。確かに三対の翼が、通常とは異なるパターンで光っていた。不規則で、速く、落ち着かない。
感情が漏れている。
「……問題ない。観測に支障はない」
平坦な声で言い切ったが、翼の明滅は収まらなかった。
天空の闘技場の外では、すでに噂が精霊たちの間を光速で駆け巡っていた。
「武力の試練で前代未聞の結果を出した魔王がいるらしい」
「神使セラフィオンが困惑したって本当?」
「神すら読めない魔王……」
新しい神話の種が、この瞬間に蒔かれていた。セラフィオンがそれに気づいていたかどうかは——翼の明滅だけが知っていた。




