勝負は、〇・三秒で終わった。
勝負は、〇・三秒で終わった。
白銀の獅子アルセイオンの前脚が、ヴァルゼンの胴体を捉えた。
衝撃。視界が回転した。白い石柱が横に流れ、空と地面が入れ替わり、闘技場の壁が迫り——激突。
壁に叩きつけられたヴァルゼンの体が、蜘蛛の巣状の亀裂を壁面に刻んだ。
「がっ……」
肺の空気が全て押し出された。背中に走る鈍い激痛。視界が明滅し、石の粉塵が舞い上がる。ヴァルゼンはずるずると壁を滑り落ち、地面にうつ伏せに崩れた。
闘技場が、静まり返った。
精霊たちが凍りついている。セラフィオンの翼の明滅が止まっている。アルセイオンが前脚を戻し、不思議そうに首を傾げている——まるで、「もう終わったのか」と言いたげに。
(……死んだ? 僕、死んだ? いや、痛い。痛いから生きてる。生きてるけどめちゃくちゃ痛い)
ヴァルゼンは地面に這いつくばったまま、ぴくりとも動けなかった。
〇・三秒。
構えを取った瞬間に吹き飛ばされた。戦闘と呼べるものですらなかった。一方的な瞬殺。歴代の魔王がこの試練に挑んで見せた激闘とは、天と地の差があった。
セラフィオンが立ち上がった。
金色の瞳に、明確な困惑が浮かんでいた。翼の明滅が不規則になっている。
「……前例がない」
その呟きは、闘技場の静寂の中を静かに滑っていった。
歴代の魔王はこの試練で力を示した。最短でも半刻。最長で三日。誰もが神獣と渡り合い、己の武を証明してきた。
〇・三秒は——ありえない数値だった。
観客席で、パーティメンバーたちが動いた。
最初に反応したのはグリゼルダだった。椅子から立ち上がりかけ——いや、飛び出しかけた。ヴァルゼンが吹き飛ばされた瞬間、無意識に前に出ようとした体を、理性で押しとどめている。拳が白くなるほど握りしめられていた。
(グリゼルダが……動いた? 試練の最中に?)
セラフィオンの観測眼がその動きを捉えたが、今はそれどころではなかった。
エルヴィンが腕を組み、深く頷いた。
「——なるほど」
なるほど、ではない。客観的に見て、完敗だ。誰がどう見ても完敗だ。だがエルヴィンの瞳には、敗北者を見る色がまるでなかった。
「ヴァルゼンは、あえて一撃で終わらせたんだ」
(あえて? あえてじゃない。普通に負けただけなんだが?)
フェリクスがモノクルを押し上げた。目が据わっている。分析の目だ。
「〇・三秒。つまり、ヴァルゼンは神獣の一撃を受ける覚悟で立った。避けることもできたはずだ、あの感知能力があれば。しかし避けなかった——なぜか」
(避けられなかったからだよ! 速すぎて何も見えなかったんだよ!)
「答えは一つです。武力による試練そのものを否定するために、あえて一切の抵抗を放棄した。暴力では何も解決しない——そう身をもって示したのです」
フェリクスの分析が、静まり返った闘技場に響いた。
精霊たちがざわめき始めた。
「武力を……否定した?」
「歴代の魔王が力を示した試練で、力を示さないことを選んだ?」
「そんな魔王は、前代未聞だ」
エルヴィンが拳を突き上げた。
「格が違いすぎて、試練にならなかったんだ! さすがヴァルゼン!」
(何がさすがだ! 何も格が違わない! 格が違うのはあの獅子の方だ!)
ミラベルの目から涙がこぼれていた。
「ヴァルゼンさんは……暴力を否定されたのです。あの方は、誰も傷つけたくないから……だから、自分が傷つくことを選んだ」
(泣かないでミラベル! 全然そんな崇高な理由じゃないから! 反射神経が追いつかなかっただけだから!)
ザガンだけが、腕を組んだまま微動だにしなかった。
その内心で何を思っているのか、ヴァルゼンには読み取れない。だが、ザガンの目が一瞬だけ閉じられたのは見えた。安堵か。諦めか。それとも——。
ヴァルゼンはなんとか体を起こした。全身が軋む。擦り傷だらけで、ローブの左袖は破れている。だが骨は折れていないらしい。ミラベルの回復魔法が必要な程度の怪我で済んだのは、神獣が手加減したのか、それとも——。
(いや、多分手加減だ。本気だったら壁を突き抜けてる)
アルセイオンが、静かにヴァルゼンを見つめていた。
不思議な視線だった。獣の目ではない。長い年月を生きた知性体の、複雑な色を宿した瞳。
侮蔑ではなかった。困惑に近い何かだった。
セラフィオンが闘技場の床に降り立った。白と金の長衣の裾が石畳の数センチ上に浮いている。
「……計算が合わない」
金色の瞳の中で、幾何学的な紋様が忙しく回転していた。
「汝の武力は、観測の通り最底辺。一撃で倒されるのは想定内。だが——」
セラフィオンの視線が、パーティメンバーたちに向けられた。
全員が、敗北者を見る目をしていなかった。
エルヴィンは誇らしげに。フェリクスは畏敬を込めて。ミラベルは涙を拭きながら微笑んで。グリゼルダは——握りしめた拳をゆっくりと開きながら、どこか安堵した表情で。
そしてアルセイオンも。
神獣は静かにヴァルゼンに頭を下げると、光の粒子となって消えていった。
「アルセイオンが……退いた」
セラフィオンの声に、初めて動揺の色が混じった。
「〇・三秒で敗北した者に、なぜ頭を下げる。あの獣は力を尊ぶ存在のはずだ」
ヴァルゼンは呆然と、神獣がいた場所を見つめていた。
(頭を……下げた? なんで? 普通に負けたのに? あの獅子、具合でも悪いのかな……)
セラフィオンが踵を返した。
長衣の裾が翻る。翼の明滅が、先ほどから不規則なままだった。
「武力の試練は——終了だ」
合否を、言わなかった。




