天空の闘技場は、想像の百倍は巨大だった。
天空の闘技場は、想像の百倍は巨大だった。
雲を突き抜けた先に広がるその空間は、白い石柱が円形に並び、観客席には半透明の精霊たちがひしめいていた。風はないのに旗が揺れ、足元には地上が遥か遠くに見える。
(高い。高すぎる。下を見るんじゃなかった)
ヴァルゼンの膝ががくがくと震え始めた。高所恐怖症というわけではない。いや、多少はある。だが今の震えの原因はもっと根本的なものだった。
闘技場の中央に、それは既にいた。
神獣——と、セラフィオンは呼んでいた。
全長十メートルはある白銀の獅子。たてがみは炎のように揺らめき、四肢は大地を踏みしめるたびに石畳を軋ませた。金色の瞳がこちらを見据えている。いや、見据えているというよりも、品定めしている。獲物として。
「ひっ」
ヴァルゼンの喉から、情けない声が漏れた。
(あれと戦えと? 正気か? 正気で言っているのか、あの神使は?)
セラフィオンは闘技場の最上段に浮かんでいた。白銀の髪が風もなく揺れ、三対の半透明の翼が淡く明滅している。金色の瞳は変わらず無表情で、しかし確実にヴァルゼンを観測していた。
「武力の試練を始める」
その声は、闘技場全体に響いた。静かな声のはずなのに、石柱の一本一本が共鳴するかのように伝播する。
「神獣アルセイオンは、歴代の魔王が器を示すために戦った聖獣である。汝の武を見せよ、魔王ヴァルゼン」
(武を見せよって。ないんだよ、そんなもの)
観客席のパーティメンバーたちが、それぞれの反応を見せていた。
エルヴィンが身を乗り出して拳を握っている。
「やれ、ヴァルゼン! お前の力を見せてやれ!」
グリゼルダが腕を組み、真剣な面持ちで闘技場を見渡している。彼女の視線は神獣の体躯を分析するように動いていた。
「あの神獣、動きに偏りがある。左後脚の接地がわずかに遅い。——だが、ヴァルゼン殿ならばそんな弱点を突くまでもないか」
フェリクスがモノクルの位置を直しながら、手帳に何かを書き込んでいた。
「歴代魔王が挑んだ試練。つまり先代も、先々代も、この聖獣と対峙した。その全てを上回る実力を持つヴァルゼンが——さて、どのような戦略を見せるのか」
ミラベルが祈るように両手を組んでいた。
「ヴァルゼンさん……どうかご無事で」
ザガンだけが、無表情の奥にわずかな不安を滲ませていた。腕を組み、口元を引き結んでいる。
(ザガン、その顔。やっぱり君だけは僕の実力をわかってるんだよね? わかってて何も言ってくれないの? 助けて?)
白銀の獅子が一歩、踏み出した。
それだけで、闘技場全体が揺れた。
ヴァルゼンの膝が笑い、足元の石畳に微かな亀裂が走った。
精霊たちの間にどよめきが起きた。
「闘気で地が揺れている——」
「あの魔王、構えてもいないのに……」
「恐ろしい威圧だ」
(違う。違うんです。膝が震えてるだけなんです。地面が揺れたのは神獣が歩いたからであって僕の闘気とかそういうのじゃないんです)
エルヴィンが歓声を上げた。
「見ろ、闘技場が魔王の闘気に応えている! さすがだ!」
(さすがじゃない! 全然さすがじゃない!)
セラフィオンの金色の瞳が、わずかに細められた。
観測眼が告げている。ヴァルゼンの魔力量は最底辺。戦闘力は一般兵以下。闘気などどこにもない。あの震えは純粋な恐怖だ。
だが——なぜだ。
なぜあの神獣は、一歩で踏み込まない。
アルセイオンは歴代の魔王を試してきた聖獣だ。弱者には容赦しない。それが試練の在り方だ。にもかかわらず、獅子は慎重に間合いを測っている。まるで、ヴァルゼンの中に何かを感じ取っているかのように。
(……何を感じている、アルセイオン)
セラフィオンは眉をひそめた。翼の明滅がわずかに速まる。
闘技場の中央で、ヴァルゼンは必死に構えを取ろうとしていた。
剣は持っていない。魔法も使えない。両手を前に出し、なんとか格闘の構えらしきものを作る。だが右手と左手の位置がちぐはぐで、腰は完全に引けていた。
(なんだこの構え。自分でもわかる。隙しかない。穴しかない。でもこれ以外知らないんだから仕方ないだろ)
白銀の獅子が、低い唸り声を上げた。
金色の瞳が、ヴァルゼンの瞳と真正面から交錯した。
その瞬間——ヴァルゼンの魔力感知が、微かに反応した。
神獣の内側に渦巻く膨大な魔力の流れ。それは嵐のように激しく、だが中心には静かな核がある。獅子はただの獣ではない。何千年もの間、魔王を試し続けてきた知性ある存在だ。
(……来る)
白銀の獅子が、地を蹴った。
闘技場の石畳が爆ぜ、衝撃波が円形に広がった。精霊たちの歓声が一瞬で悲鳴に変わる。
ヴァルゼンが構えた——その瞬間。




