闘技場への道
闘技場への道
レーヴェン地方の虚淵は、パーティの連携で一時的に封じることができた。
ヴァルゼンが魔力感知で核の位置を特定し、フェリクスとミラベルの術式で封印し、エルヴィンとグリゼルダが周囲の被害を食い止めた。何度も繰り返してきた手順だった。集落の住民は事前の避難指示で全員無事だった。
だが、封じただけだ。
根本的な解決には程遠い。
そしてその日の午後——セラフィオンが、試練の場所を告げた。
「天空の闘技場。かつて神々が世界の守護者を選定するために造った試練場だ。汝の試練も、そこで行う」
(天空の闘技場。名前からしてもう無理。天空って何? 空にあるの? 高所恐怖症なんだけど)
高所恐怖症ではなかったが、ヴァルゼンは自分が高所恐怖症であってほしいと思った。それなら試練を辞退する正当な理由になる。
闘技場への道は、丸一日の行程だった。
セラフィオンが先導し、パーティがその後に続く。神使は歩かない。地面から数センチ浮いたまま、滑るように前進する。速くもなく遅くもなく、人間の歩行速度にぴったり合わせていた。
(あの人、わざと僕らに合わせて速度を落としてるんだろうな。本気を出したら瞬間移動とかできそうだし)
道中、セラフィオンはずっとヴァルゼンを見ていた。
ずっと、だ。
正面を向いているように見えて、金色の瞳の端がヴァルゼンを捉えている。虹彩の紋様が微かに回転し続けている。観測が——途切れていない。
ヴァルゼンはその視線を、背中で感じていた。
(怖い。ずっと見られてる。品定めされてる。いや、品定めっていうか、観察? 虫の標本を作る前の学者みたいな目。やめてほしい。本当にやめてほしい)
視線に耐えかねて、ヴァルゼンは無意識に挙動がおかしくなった。
歩幅が安定しない。右を向いたり左を向いたり。小石に躓きかけては体勢を直し、木の枝が顔に迫れば過剰に避け、道端の花に目をやっては足を止めかける。
要するに、落ち着きがなかった。
その挙動を、セラフィオンの付き人——道中から合流した白衣の天使のような存在——が、克明に記録していた。
「報告いたします」
付き人がセラフィオンの耳元で囁いた。声量を抑えていたが、ヴァルゼンの近くにいたフェリクスの耳には届いていた。
「魔王ヴァルゼンの行動パターンですが——行軍中、常に周囲に注意を払い、地形、植生、気象の変化を逐一確認しておられます。石一つ、枝一本に至るまで見落としがありません。また、道端の薬草にも反応しており、知識の広さが窺えます。これは——王者の所作かと」
(花だよ! 綺麗な花が咲いてたから見ただけだよ! 薬草かどうかなんて知らない! 王者の所作じゃない、ただの落ち着きのなさだ!)
フェリクスがモノクルを光らせて頷いた。
「ふむ。やはりそうですか。ヴァルゼン殿は、余裕があるからこそ周囲に気を配れるのです。常人なら神使の前で萎縮するところを、この方は平常心で行軍なさっている」
(平常心じゃない! むしろ異常心だ! 胃が千切れそうなんだ!)
エルヴィンが後方から声を上げた。
「ヴァルゼン! さっきから花や石ころまで気にしてるな。もしかして、道中に罠がないか確認してるのか? さすがだ!」
「いえ、あの——」
「安心しろ! 仮に罠があっても、お前なら楽勝だ!」
(罠じゃない。花を見てただけだし、石に躓いただけだし、枝が怖かっただけだ)
グリゼルダが隣を歩きながら、小声で言った。
「ヴァルゼン。お前がこの道中で周囲を警戒する姿を見て、改めて確信した。お前は戦場に立つ者の心構えを持っている」
(持ってない。挙動不審なだけだ。警戒じゃなくて怯えだ)
ミラベルは何も言わなかった。ただ、隣を歩きながら穏やかに微笑んでいた。その微笑みが、ヴァルゼンの心を少しだけ落ち着かせた。
ほんの少しだけ。
午後の陽が傾き始めた頃、一行は山道を登りきった。
そして——それは、唐突に姿を現した。
雲の上に、闘技場があった。
巨大だった。
直径は百メートルを優に超える円形の構造物が、雲海の上に浮かんでいる。白い石材と金の装飾で造られた壮麗な外壁。等間隔に並ぶ巨大な列柱。観客席のように弧を描く段差。そして中央には、試練が行われるであろう広大な平地。
古代の闘技場を、そのまま空に持ち上げたような光景だった。
「あれが——天空の闘技場」
エルヴィンが息を呑んだ。
「神々が造った、か。なるほど、確かに人の技じゃない」
フェリクスが目を細めた。
「構造物を空中に固定する術式の複雑さ……数千年の維持を可能にする魔力の循環構造……これは、学術的にも極めて——」
「フェリクス。今はいい」
グリゼルダが遮った。彼女の目は、闘技場の中央を見据えていた。
「問題は、あそこで何が待っているかだ」
セラフィオンが振り返った。
「行くぞ、魔王ヴァルゼン。汝の器を——我が見定める」
翼が大きく広がり、光が溢れた。
パーティを包む浮遊の術式が発動し、一行の足が地面を離れた。ゆっくりと、雲の上へと昇っていく。
ヴァルゼンは足元を見下ろした。
地面が遠ざかっていく。雲が近づいてくる。闘技場の白い壁が、どんどん大きくなる。
(帰りたい)
闘技場の入口が見えた。
(帰りたい)
列柱の間から、中央の広場が垣間見えた。そこには何かが——巨大な何かの気配が、蠢いていた。
(帰りたい)
三回思った。三回とも本気だった。
だが、帰る場所はもうなかった。
神使の試練は、目の前にある。
ヴァルゼンの足が、天空の闘技場の白い石畳に触れた。
冷たかった。空の上は、地上よりずっと冷たかった。
セラフィオンが中央に進み、振り返った。
「武力の試練——明朝より開始する。今宵は休め」
休め、と言われても。
ヴァルゼンは闘技場の隅に座り込み、膝を抱えた。
遥か眼下に広がる雲海を見つめながら、彼は思った。
(僕の人生、どこで間違えたんだろう)
星が瞬き始めていた。
セラフィオンが少し離れた場所に佇み、やはりヴァルゼンを見ていた。観測の目は、夜になっても閉じることがなかった。
翼の明滅だけが、微かに——揺らいでいた。




