虚淵の拡がり
虚淵の拡がり
試練の準備期間は、のんびりしたものではなかった。
世界が、壊れ続けていたからだ。
朝食の席に、伝令が飛び込んできたのは日の出直後のことだった。
「報告します! 南東のレーヴェン地方で虚淵が発生! 街道沿いの集落三つが飲まれかけています!」
パーティの空気が一変した。
エルヴィンが椅子を蹴って立ち上がり、グリゼルダが即座に剣を手にした。フェリクスが地図を広げ、ミラベルが回復術の準備を始めた。
ヴァルゼンは——パンを咥えたまま固まった。
(また虚淵か。最近、頻度が上がってる。嫌な感じがする。すごく嫌な感じがする。胃の底が冷たくなるような——いや、これは胃じゃない)
魔力感知。
ヴァルゼンの唯一にして最大の能力が、警鐘を鳴らしていた。
南東——レーヴェン地方の方角から、鋭い魔力の乱れが伝わってくる。まるで世界の皮膚に穴が開いて、中身が漏れ出しているような、ぞわりとする感覚。
「……っ」
ヴァルゼンの顔が、歪んだ。
パンを落とした。椅子の背もたれを握りしめ、身を屈めた。
(痛い。痛いわけじゃないけど、嫌だ。世界が軋んでる。歯車が合わなくなっていくような、ひどく不快な——)
「ヴァルゼン殿」
フェリクスが鋭く振り返った。
「やはり、感じ取っておられるのですね」
(感じ取りたくない。この感覚、本当に気持ち悪いんだ)
「世界の危機を肌で感じ取れる——それは魔王だけが持つ感覚なのでしょう」
(僕じゃなくても嫌な感じぐらいするだろ、こんなの。え、しない? みんなは平気なの?)
エルヴィンが険しい顔で地図を覗き込んだ。
「レーヴェン地方か。昨日は北のエーデル山脈付近で発生していた。一昨日は西の港町アルバーニ。——散発的だな」
「いいえ」
フェリクスが首を振った。
「散発的ではありません。発生地点を時系列で並べると——」
賢者の指が地図の上を走った。指先が点を繋ぎ、線を描く。
「——加速しています。発生間隔が短くなっている。そして、範囲が広がっている」
沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、ヴァルゼンは魔力感知を——無意識のうちに広げていた。
南東のレーヴェンだけではない。北にも。西にも。東にも。微かだが、確かに——世界の至る所で、魔力の流れが乱れている。小さな穴が、いくつも、いくつも開きかけている。
「あの……」
ヴァルゼンが、おずおずと口を開いた。
「レーヴェンだけじゃ、ないです」
全員の視線が集まった。
「北の山脈付近にも、西の海岸線にも……なんていうか、嫌な感じがする場所が、いくつも……」
フェリクスの目が見開かれた。
「——複数箇所を同時に感知しておられるのですか」
「え、いや、感知って大げさなものじゃなくて。ただ、こう、なんとなく嫌な感じが——」
「地図を。ヴァルゼン殿、どの方角に違和感を覚えますか? できるだけ正確に教えていただけますか」
ヴァルゼンは戸惑いながらも、フェリクスの要請に従った。
目を閉じ、意識を広げる。
南東。北北東。西。南西。東南東。北西——。
指差すたびに、フェリクスが地図に印をつけていく。赤い点が、次々と地図の上に生まれた。
点が増えていく。
一つ、二つ、三つ——。
七つ目の点を打ったとき、ミラベルが小さく息を呑んだ。
「……多い。こんなに」
「しかもこれは、現在進行形で発生している箇所だけです」
フェリクスの声に、珍しく緊張が滲んでいた。
「ヴァルゼン殿の感知に引っかからない微小な乱れまで含めれば、実際の数はこの何倍にもなるでしょう」
地図を見下ろすパーティの表情が、暗く沈んだ。
赤い点は、大陸全体に散らばっていた。
ヴァルゼンはその地図を見つめながら、別のことを感じていた。
(これ……バラバラに見えるけど、なんか繋がってる気がする。一個一個が独立した虚淵じゃなくて、もっと大きな何かの——断片、みたいな)
だがその感覚は、言葉にするには曖昧すぎた。気のせいかもしれない。ヴァルゼンは口を噤んだ。
代わりに、別の視線を感じた。
屋上から。
セラフィオンが、窓越しにこちらを見下ろしていた。
翼が——明滅していた。先ほどまでの困惑とは違う、別種の光。
(……あの者、複数箇所の虚淵を同時に感知した。それも、我の観測眼に匹敵する精度で方角を示した。戦闘力は最底辺。だが、この感知能力は——)
セラフィオンの紋様が、ゆっくりと回転した。
(——先代魔王にも、なかった)
朝食の場に戻ると、エルヴィンが決意の表情を浮かべていた。
「まずはレーヴェンの虚淵を止めるぞ。試練はその後だ。——セラフィオン、構わないな?」
窓の外から、セラフィオンの声が降ってきた。
「構わぬ。観測の対象が増えただけだ」
(観測って言い方やめてほしい。実験動物みたいで怖いんだけど)
パーティは即座に出発の準備を整えた。
地図の上に残された赤い点は——七つ。
そしてその数は、明日にはきっと増えている。
ヴァルゼンの魔力感知が、そう告げていた。




