三つの試練
三つの試練
セラフィオンという名前を、ヴァルゼンは三回聞き直した。
一回目は純粋に聞き取れなかった。二回目は聞き取れたが信じられなかった。三回目は信じたが受け入れられなかった。
神使。神々の観測者。地上世界の秩序を監視する存在。
(嘘だろ。神話の教科書に載ってるやつじゃないか。あれが実在するの? しかも僕の目の前にいるの?)
宿の広間は、異様な空気に包まれていた。
テーブルの上座にセラフィオンが立っている。立っている、というより浮いている。足元と床の間には数センチの隙間があり、白と金の長衣の裾がその空間でゆらゆらと揺れていた。
パーティの全員が席についていたが、誰もスープに手をつけていなかった。ヴァルゼンのスープはとっくにローブの上に移動済みだったので、ある意味では最も自由な状態だった。
「改めて告げる」
セラフィオンの声が響いた。感情の起伏がない、平坦で、しかし圧倒的な重みを持つ声だった。
「魔王ヴァルゼン。我は汝の器を測るため、三つの試練を課す」
三つの試練。
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルゼンの胃がきゅっと縮んだ。
「——武」
セラフィオンが右手を掲げた。光が一つ、灯る。
「——知」
左手を掲げた。もう一つ、光が灯る。
「——徳」
両手を合わせた。三つ目の光が、胸の前で輝いた。
「この三つをもって、汝が真の魔王たる器を有するか否かを裁定する」
沈黙が落ちた。
パーティの面々が、それぞれの表情でヴァルゼンを見つめている。
エルヴィンは拳を握り、目を輝かせていた。
フェリクスはモノクルの奥で目を細め、分析の目をしていた。
グリゼルダは腕を組み、静かに頷いていた。
ミラベルは両手を胸の前で組み、祈るような面持ちだった。
ザガンだけが、表情を変えずにヴァルゼンの横顔を見ていた。
全員が、同じことを考えていた。
ヴァルゼンなら、当然突破する——と。
(全部無理です)
ヴァルゼンは口を開いた。
「あの……セラフィオン、さん」
「呼び捨てでよい。汝は魔王だ」
「セラフィオン。その試練なんですけど……辞退、できませんか?」
空気が凍った。
文字通り、宿の室温が二度ほど下がった気がした。
セラフィオンの翼が一瞬だけ強く明滅した。金色の瞳の紋様が、回転を速めた。
「……辞退?」
「はい。あの、僕には荷が重いといいますか、器が小さいといいますか——」
「なるほど」
フェリクスが呟いた。
その呟きが、静寂の中で妙に大きく響いた。
「余裕すぎて、試練を嘲笑っているのか」
(してない! 本気で辞退を申し出てるんだよ!)
エルヴィンが豪快に笑った。
「はっはっは! さすがヴァルゼンだ! 神の使いが課す試練を『辞退できますか?』だと! そんな台詞、最凶の魔王にしか吐けないぞ!」
(吐きたくて吐いてるんじゃない! 心からのお願いなんだ!)
グリゼルダが腕を組んだまま、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「ヴァルゼン。お前は試練を恐れているのではない。試練が退屈だと言っているのだな」
(言ってない。恐れてる。めちゃくちゃ恐れてる)
ミラベルが涙ぐんだ目でヴァルゼンを見つめた。
「ヴァルゼンさん……辞退を申し出るなんて、きっと理由があるんですよね。試練で力を見せることへの、謙虚さ……」
(理由はあるよ。力がないからだよ。謙虚じゃなくて正直なんだよ)
セラフィオンが、じっとパーティの反応を観測していた。
神使の表情に、再び困惑の色が混じった。虹彩の紋様が不規則に回転している。
(この者たちは……本気で、この魔王を信じているのか? 観測眼が示す数値と、彼らの信頼の間に、あまりに大きな乖離がある)
セラフィオンは、感情を排して告げた。
「辞退は認めぬ。三つの試練に耐えられぬ者は——消える」
消える。
その一言が、ヴァルゼンの背筋を氷の指で撫でた。
「き、消えるって……比喩ですよね? 消えるっていうのは、その、存在感が薄くなるとか、目立たなくなるとか——」
「文字通りの意味だ。魔王の器に非ずと裁定された者は、神々の権能をもって存在を抹消する。それが、世界の秩序を守るための——定めだ」
ヴァルゼンの顔から、一切の血の気が引いた。
蒼白。
完全な蒼白だった。
唇が震え、瞳が揺れ、手指の先まで冷たくなっていくのが自分でもわかった。
(死ぬ。今度こそ本当に死ぬ。いや死ぬどころか消えるって言った。存在ごと消されるんだ。スープをこぼしたローブのまま、僕の人生は終わるのか)
エルヴィンが、ヴァルゼンの肩に手を置いた。
「心配するな、ヴァルゼン。お前が消えるわけがない。最凶の魔王が神の試練ごときで消えてたまるか」
フェリクスが静かに頷いた。
「ええ。そもそもこの方が消えるなら、世界の方が先に終わりますよ」
グリゼルダが剣の柄を叩いた。
「試練が何であろうと、ヴァルゼンの後ろには我々がいる」
ミラベルが、ヴァルゼンの手をそっと握った。温かかった。
「大丈夫ですよ、ヴァルゼンさん。わたしたちが、ついていますから」
ヴァルゼンは、仲間たちの顔を見回した。
全員が、本気だった。
本気で、ヴァルゼンが試練を突破すると信じていた。
(……ありがたい。ありがたいんだけど、その信頼の根拠が全部誤解なんだよなあ)
ザガンが、小声で囁いた。
「……本当に大丈夫なのか、この魔王は」
その声が、ヴァルゼンの耳をすり抜け——セラフィオンの耳に届いた。
神使と元参謀の目が、一瞬だけ合った。
セラフィオンの瞳の紋様が、ぴたりと止まった。
ザガンは視線を逸らさなかった。
その刹那の交差に、ヴァルゼンは気づかなかった。




