光臨
光臨
それは、空が割れた瞬間から始まった。
比喩ではない。文字通り、空が割れたのだ。
虚淵の対処で疲弊しきったパーティが拠点の街に帰還し、ようやく宿の椅子に腰を下ろしたときのことだった。ヴァルゼンが冷めたスープに手を伸ばした——その指先が器に触れるか触れないかの刹那、世界が白く染まった。
(え?)
窓の外から差し込む光が、尋常ではなかった。
朝日でも魔法でもない。光そのものが意志を持っているかのように、街の上空に集束していく。雲が左右に押し退けられ、蒼穹の奥から金色の亀裂が走った。
「——来たか」
エルヴィンが立ち上がった。剣の柄に手をかけ、窓の向こうを睨む。
「あの光……王都での日々の最後に現れた、あの存在か」
フェリクスがモノクルの位置を直しながら呟いた。声は冷静だったが、指先が微かに震えている。
「間違いないでしょう。この魔力の質は——人間の域を遥かに超えています」
グリゼルダが無言で剣を抜いた。ミラベルが杖を握り、祈りの姿勢をとった。
ザガンだけが、ヴァルゼンの隣で静かに佇んでいた。
「……陛下」
「ザガン、僕は今、スープを飲みたかっただけなんだけど」
「存じております」
街の上空に、光の柱が降りてきた。
柱——いや、それは柱ではなかった。光が人の形をとっていた。白銀の髪が風もないのに揺れ、金色の瞳が地上を見下ろしている。背中には半透明の翼が三対。光と魔力で構成された、概念的な存在。衣装は白と金を基調とした長衣で、裾は地面に触れていない。数センチ、浮いている。
街の人々が膝をついた。祈る者、泣く者、呆然と空を仰ぐ者。
ヴァルゼンは——腰を抜かした。
椅子から転げ落ち、床に尻餅をついた。スープの器が倒れ、中身が彼のローブに染みた。冷めたスープでよかった、と場違いなことを思った。
(無理無理無理無理。なにあれ。なにあの存在。次元が違いすぎる。光ってるし浮いてるし翼あるし、え、翼三対って六枚? 翼六枚って何?)
セラフィオンが——その名をヴァルゼンはまだ知らなかったが——ゆっくりと地上に降りてきた。
宿の壁が、光の圧力で軋んだ。
「——汝が、魔王ヴァルゼンか」
声は、頭の中に直接響いた。耳で聞いたのではない。存在そのものが言語を発しているような、異質な感覚だった。
ヴァルゼンは床に座り込んだまま、返事ができなかった。口を開こうとしたが、顎が震えて噛み合わない。
エルヴィンが前に出た。
「そうだ。この方が魔王ヴァルゼン——俺たちのパーティの要にして、最凶の魔王だ」
(やめて。今だけはその紹介やめて)
セラフィオンの金色の瞳が、ヴァルゼンを見下ろした。
虹彩に浮かぶ幾何学的な紋様が、ゆっくりと回転した。観測眼——あらゆる存在の魔力量・属性・状態を正確に計測する、神使固有の能力。
一瞬だった。
セラフィオンがヴァルゼンの全てを読み取るのに要した時間は、瞬きひとつ分にも満たなかった。
そして——神使の表情が、僅かに歪んだ。
困惑。
それは間違いなく、困惑だった。
(え、なんで困った顔してるの。困りたいのはこっちなんだけど)
エルヴィンがヴァルゼンの傍に膝をつき、力強く肩を叩いた。
「見ろ、ヴァルゼン。神の使いですら、お前の前で一瞬たじろいだぞ。さすがは最凶の魔王だ!」
(逆だよ。あの人は僕を見て『えっ、これが魔王?』って顔をしたんだよ。たじろいだんじゃない、引いたんだ)
グリゼルダが剣を構えたまま、低い声で言った。
「ヴァルゼン。あの存在の実力は計り知れない。だが、お前が膝を折ったことで——敵意がないと伝わったはずだ。見事な判断だ」
(膝を折ったんじゃない。腰が抜けたんだ。スープもこぼしたんだ。何も見事じゃない)
セラフィオンが、一歩前に出た。
光が収束し、神威が凝縮される。街全体が息を呑んだ。
「我はセラフィオン。神々の観測者にして、地上世界の秩序を監視する者」
翼が一度、大きく明滅した。
「魔王ヴァルゼン。汝の器を——試す時が来た」
その言葉が、世界に刻まれた。
空気が変わった。風が止まり、鳥が黙り、街の喧騒が消えた。
ヴァルゼンは床に座り込んだまま、スープに濡れたローブのまま、人類と魔族の命運を左右するかもしれない宣告を——受けた。
(帰りたい)
セラフィオンの金色の瞳が、じっとヴァルゼンを見つめていた。
困惑を、隠しきれない表情で。
「……これが、あの魔王か?」
その呟きは、ヴァルゼンの耳にだけ届いた。




