五日目の夕暮れ、空が裂けた。
五日目の夕暮れ、空が裂けた。
ヴァルゼンは王都に戻っていた。グラウザル北縁の虚淵を応急処置し、さらに西方の二箇所にも手を打ち、ぼろぼろの体を引きずって帰還した。二日間で五箇所の虚淵に対処した。五箇所すべてが応急処置に過ぎず、いつ再び崩壊してもおかしくない状態だった。
それでも全力を尽くした結果、ヴァルゼンは作戦室の椅子に座ったまま意識を落としていた。
(もう無理だ。体が動かない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。脈点の声が止まらない。寝ても覚めても聞こえてくる。世界が壊れていく音が——)
夢と現実の境が曖昧になっていた。
机に突っ伏したまま、ヴァルゼンは脈点の脈動を感じ続けていた。北東の脈点が少し安定した。南西の脈点がまた揺らいだ。西方の——
突然、全ての感覚が消えた。
脈点の声が、虚淵の圧力が、大陸中から届いていた悲鳴が——一瞬で途絶えた。
代わりに、頭の奥で何かが光った。
目を開けた。
作戦室の窓の外が、白い光に包まれていた。
「何だ——!?」
エルヴィンが剣に手をかけた。グリゼルダが盾を構えた。フェリクスが詠唱の姿勢を取り、ミラベルがヴァルゼンの前に立った。ザガンが一歩前に出て、ベリオスが拳を握った。
全員が、一瞬で臨戦態勢に入った。
だがヴァルゼンだけは、違う反応をしていた。
怖くなかった。
正確には、怖いのだが——脈点の悲鳴が聞こえなくなった安堵が、恐怖を上回っていた。この光が何であれ、世界の痛みを一瞬で鎮めるほどの力を持っている。
(なんだ、これ。すごく——大きい。今まで感じたことがないくらい、大きな存在が近づいてくる)
作戦室を飛び出した。パーティ全員が続いた。
王都の広場に出ると、夕暮れの空を白い光が切り裂いていた。光は一本の線となって天から降り注ぎ、広場の中央に収束した。
王都の住民たちが足を止め、空を見上げていた。兵士が槍を構え、商人が荷物を抱えて逃げ惑い、子供が母親にしがみついていた。
光が、人の形をとった。
中性的な容姿。陶器のように滑らかな肌が、微かに発光していた。金色の瞳には幾何学的な紋様が浮かび、ゆっくりと回転していた。白銀の髪は腰まで届き、風がないのに揺れていた。白と金の長衣の裾は地面に触れていない。数センチ、浮いていた。
そして——背中に、三対の翼。
半透明の、光と魔力で構成された概念的な翼が、ゆっくりと明滅していた。
ヴァルゼンの全身が総毛立った。
これは、人間でも魔族でもない。もっと根源的な、もっと上位の存在。世界の法則そのものに近い——
(神、使……?)
その存在が、口を開いた。
「久しく見守ってきた」
声は、空気を震わせるというより、空間そのものに染み渡るような響きだった。広場にいる全員の耳に——いや、耳ではなく、意識に直接届いた。
「最弱の魔王よ」
金色の瞳が、ヴァルゼンを捉えた。
その瞬間、ヴァルゼンの体が動かなくなった。恐怖ではない。圧力だ。この存在の「格」が、肉体を縫い止めている。周囲を見れば、エルヴィンもグリゼルダもフェリクスも——パーティ全員が同じように動きを止めていた。
唯一、ヴァルゼンの口だけが動いた。
「見守ってた!? いつから!?」
裏返った悲鳴が広場に響いた。
(待って待って待って! 見守ってたって何!? 僕が寝てる時も!? お風呂の時も!? トイレの時も!? やめて! プライバシー!)
神使——セラフィオンは、微かに首を傾げた。翼の明滅が一瞬だけ不規則になった。
「……汝の懸念は、的外れだ。我が観ていたのは魂の在り様であって、肉体の営みではない」
(魂を見られてる方がよっぽど怖いんだけど!)
「汝に問う、魔王ヴァルゼン」
セラフィオンが一歩踏み出した。浮いたままの足が、空中を滑るように進んだ。
「汝の力は何処にある。我には見えぬ」
(知ってる! 僕も見えない! ないから見えないんだ!)
エルヴィンが歯を食いしばり、渾身の力で体を動かそうとしていた。剣を抜こうとしている。だが、神威の前に指一本動かせない。
「ヴァル……ゼン……!」
勇者の叫びが、圧力に押し潰されて途切れた。
グリゼルダが低く唸った。フェリクスの額に汗が浮かんだ。ミラベルが祈りの姿勢を取ろうとして、腕すら上がらなかった。ザガンだけが——長い歳月で培った冷静さで、セラフィオンの正体を見極めようとしていた。
「神使……まさか、神界からの使者か」
ザガンの呟きが、パーティ全員の耳に届いた。
神使。神々の使い。人間と魔族の歴史において、伝承の中にしか存在しないはずの存在。
セラフィオンはザガンを一瞥した。
「魔王の従者か。先代にも、汝のような者がいた」
ザガンの表情が、一瞬だけ揺らいだ。
セラフィオンの視線がヴァルゼンに戻った。
「汝の器を試す時が来た」
(器? 器って何? 僕の器はたぶんお猪口くらいだ。コップですらない)
「世界が崩壊に向かっていることは、汝も感じているだろう」
「それは——はい。感じてます。毎日感じてます。痛いくらいに」
「ならば問う。汝はこの崩壊を止める意志があるか」
ヴァルゼンは答えに詰まった。
意志はある。五日間、体がぼろぼろになるまで虚淵と戦った。脈点の悲鳴を聞くたびに胸が潰れそうになりながら、一箇所ずつ応急処置を繰り返した。
だが、足りなかった。全然足りなかった。
「……意志はあります。でも、力が足りない。僕の力だけじゃ、世界を救えない」
正直な言葉だった。虚勢も謙遜もない、ただの事実。
セラフィオンの金色の瞳に浮かぶ幾何学紋様が、回転速度を上げた。翼の明滅が激しくなった。
「……理解できぬ」
神使の声に、初めて感情らしきものが混じった。
「力なき者が、なぜ力ある者を従える。恐怖に震える者が、なぜ世界の痛みに立ち向かう。汝の存在は、秩序の法則に反している」
(反してるのは知ってる。僕が一番よくわかってる)
「だが——」
セラフィオンが右手を差し伸べた。その掌から、温かい光が溢れた。ヴァルゼンの体を包んだ光は、五日間の疲労を洗い流すように体の隅々に染み渡っていった。
「汝の周りには、確かに秩序がある。我の知る秩序とは異なるが——確かに」
光が収まった。
パーティを縛っていた圧力が、ふっと消えた。エルヴィンが即座に剣を抜き、ヴァルゼンの前に立った。グリゼルダが盾を構え、フェリクスが詠唱を始めた。
「ヴァルゼンから離れろ!」
エルヴィンの怒号。
セラフィオンは動じなかった。パーティ全員の戦意を受けてなお、微かに首を傾げただけだった。
「恐れることはない、勇者よ。我は敵ではない」
そして、セラフィオンはヴァルゼンの目を真っ直ぐに見た。
「魔王ヴァルゼン」
その声は、先ほどまでの超然とした響きとは微かに異なっていた。何かを確かめるような、あるいは——何かを伝えようとするような。
「恐れるな」
一拍の間。
「恐れることが、お前の力だ」
ヴァルゼンは目を見開いた。
(恐れることが、力? 何を言って——)
セラフィオンの体が光に包まれた。
「我は再び来る。その時まで——」
光が弾けた。
夕暮れの広場に、残光だけが漂った。金色の粒子がゆっくりと消えていく。空は何事もなかったかのように茜色に染まっていた。
しばらく、誰も動けなかった。
最初に口を開いたのは、エルヴィンだった。
「……なんだったんだ、今のは」
グリゼルダが盾を下ろした。
「神使。伝承にのみ語られる存在。まさか実在するとは」
フェリクスが詠唱を解き、額の汗を拭った。
「魔王殿に直接語りかけた。これは——物語の規模が変わったということです」
ミラベルが涙目でヴァルゼンの腕にしがみついた。
「怖かったです……!」
ザガンは沈黙していた。その目には、深い思索の色があった。
ベリオスは——ただ黙って空を見上げていた。神使が消えた空を。
ヴァルゼンは広場の中央に立ち尽くしていた。
(恐れることが、お前の力だ)
その言葉の意味が、わからなかった。
恐れることは弱さだと、ずっと思ってきた。怖いから逃げる。怖いから戦えない。怖いから、魔王らしいことが何一つできない。それが自分だと思っていた。
なのに——あの存在は言った。恐れることが力だと。
(わからない。全然わからない)
だが一つだけ確かなことがあった。
物語は——ヴァルゼンの、最弱の魔王の物語は——人間と魔族の枠を超え、神々の領域に足を踏み入れた。
夕暮れの光が消えていく。
夜の闇が、世界を包み始めた。
ヴァルゼンは震えていた。いつも通り震えていた。だがその震えの中に、ほんの微かな——名前のつけられない何かが、芽生えていた。




