目覚めたとき、ヴァルゼンの体はまだ重かった。
目覚めたとき、ヴァルゼンの体はまだ重かった。
丸一日眠っていたらしい。その間に、新たな虚淵が三箇所発生したとフェリクスが淡々と報告した。合計で十一箇所。パーティの力だけでは、もはや追いつかない。
「各地の騎士団や冒険者ギルドに協力を要請しましたが、虚淵を封じる技術を持つ者がいません。結局、魔王殿の感知能力がなければ脈点の位置すら特定できない」
フェリクスの声は平坦だったが、その奥に疲労が滲んでいた。
「避難誘導ならできます。しかし根本的な対処は——」
「僕にしかできない、ってことだよね」
ヴァルゼンは自分の声が妙に落ち着いていることに驚いた。恐怖はあった。全身に染み渡るように恐怖はあった。だが、昨日一箇所の虚淵を遅延させた経験が、ほんの僅かな手応えとして残っていた。
(できなかったけど、できた。完全じゃないけど、ゼロじゃなかった。それだけが、僕の支えだ)
「次はどこに向かう」
エルヴィンが立ち上がった。
「南。グラウザル方面です」
フェリクスが地図を示した。魔族領域の北縁に、大規模な虚淵が三箇所同時に発生している。
「ベリオス殿に先行していただいています。魔族側の避難誘導はベリオス殿の名があれば円滑に進むはずです」
(ベリオスが先行してくれてるのか。あの人、帰順してからずっと大人しくしていたのに)
馬を南に飛ばした。道中、ヴァルゼンの感覚は休まる暇がなかった。
大地の下で脈点が軋んでいる。北東の、昨日応急処置をした脈点はまだ持っているが、西方の二箇所が新たに危険域に入りつつある。南の三箇所は拡大速度が加速している。
(全部が同時に壊れていく。まるで——まるで、綻びが一気に広がるみたいに)
ミラベルが馬上でヴァルゼンの顔色を窺っていた。
「ヴァルゼンさま。お顔の色が悪いです」
「大丈夫。ちょっと、いろんなところから声が聞こえるだけ」
「声?」
「あ、いや。声っていうか、脈点の——うまく言えないんだけど。脈点が助けてって言ってるような感じが」
ミラベルの目が大きく見開かれた。
「世界の声が聞こえるんですね」
(そんな大層なものじゃ——いや、でも、確かに声に近い。ぎりぎりで耐えている悲鳴みたいな)
グラウザル北縁に到着すると、ベリオスがすでに魔族の住民を避難させていた。元将軍の威光は健在で、魔族たちは秩序立って後退していた。
だが、虚淵の規模は王都近郊のものとは比較にならなかった。
三つの虚淵が三角形を描くように展開し、その中心部が巨大な虚無の空間と化していた。草原が、丘が、小さな集落が——跡形もなく消えている。残っているのは、何もない空間だけだった。
「これは……」
エルヴィンが絶句した。
ヴァルゼンは膝が震えた。恐怖ではない。いや、恐怖もある。だが、それ以上に——感覚が、直接叩きつけてくる。三つの脈点が同時に崩壊しかけている圧力が、頭の中で炸裂している。
(痛い。頭が割れそうだ。三箇所同時なんて——一箇所でも限界だったのに)
「魔王殿。無理をするべきではありません」
フェリクスの声に珍しく感情がこもっていた。
「しなきゃいけないんだ」
ヴァルゼンは歯を食いしばった。震える足で一歩前に出た。
目を閉じた。意識を地下に沈めた。三つの脈点が見えた。細く、今にも切れそうな魔力の糸。それぞれが別の方向に引っ張られ、綻びを広げている。
(一箇所ずつやるしかない。まず——一番危ない南東のやつから)
ミラベルの回復魔法を中継し、フェリクスの空間制御で虚淵の拡大を遅延させながら、ヴァルゼンは魔力の流れを必死に読み取った。どこに魔力を注げば脈点が持つのか。どの角度から補強すれば崩壊が止まるのか。
一箇所目。二時間。
二箇所目。三時間。体力が削れていくのが自分でもわかった。
三箇所目に取りかかろうとしたとき、鼻から血が出た。
「陛下!」
ザガンが駆け寄った。
「大丈夫。まだいける」
「いけません。この出血は魔力感知の過剰負荷です。これ以上は——」
「まだ足りないんだ」
ヴァルゼンの声が、自分でも驚くほど低かった。
「まだ足りない。三箇所目がある。ここを放置したら、あの集落の人たちが——」
「ヴァルゼン」
エルヴィンがヴァルゼンの肩を掴んだ。真剣な目だった。
「お前が倒れたら終わりだ。わかっているだろう」
(わかってる。わかってるけど——)
三箇所目の脈点が、感覚の中で悲鳴を上げていた。あと少し。あと少しで切れる。切れたら、あの向こうの集落が消える。
「……十分だけ。十分だけ休んだら、やる」
エルヴィンが口を開きかけた。だがヴァルゼンの目を見て、何も言わずに頷いた。
十分後。ヴァルゼンは三箇所目に取りかかった。
二時間かかった。終わった時には立てなかった。
ベリオスが近づいてきたのを、ヴァルゼンは薄れゆく意識の中で感じた。
「……この魔王は本気で世界を救おうとしている」
ベリオスの声は、かつての敵意の残滓を完全に失っていた。代わりにあったのは——何だろう。畏敬か。困惑か。あるいはその両方か。
「先代にすらなかった覚悟だ」
(覚悟じゃない。ただ、放っておけなかっただけだ。聞こえてしまうんだ、脈点の悲鳴が。聞こえてしまったら、無視できないだろ。誰だってそうするだろ)
——いや。
(誰だってそうする、は嘘だ。聞こえるのは僕だけだ。だから僕がやるしかない。それだけのことだ)
意識が沈んでいく。
全身が鉛のように重い。
だが、感覚だけは止まらなかった。眠りに落ちかけても、大陸各地の脈点が薄く脈打つのが伝わってくる。遠い場所で、新たな虚淵が生まれようとしている。
(まだ足りない。もっと何かが必要だ。僕の力だけじゃ——パーティの力だけじゃ——足りない)
何が足りないのか。何があれば世界を救えるのか。
その答えは、まだ見えなかった。




