異変は、訓練を始めて三日目の夜に起きた。
異変は、訓練を始めて三日目の夜に起きた。
ヴァルゼンは寝室のベッドで目を覚ました。正確には、目が覚めたのではない。叩き起こされた。全身の感覚が悲鳴を上げるように。
(なんだ。なんだこれは)
足の裏のぴりぴりどころではなかった。全身が——皮膚の下を何かが這い回るような、骨の芯を誰かが掴んでいるような。耐えがたいほどの不快感と、その奥にある、もっと根源的な恐怖。
世界が、痛がっている。
ヴァルゼンはベッドから転がり落ちた。文字通り転がり落ちた。毛布に足を取られ、床に顔面から突っ込んだ。
「いたっ——!」
だが痛みで我に返る暇もなく、感覚が頭の中を駆け巡った。北。北東。北西。南。南南西。六箇所。いや七箇所。同時に、脈点が悲鳴を上げている。
(複数同時発生!? こんなの今までなかった!)
廊下に飛び出した。夜着のままだった。
「ザガン! フェリクスさん! 誰か!」
叫んだ声は情けないほど裏返っていたが、効果は絶大だった。
三十秒でザガンが現れ、一分でフェリクスがモノクルを片手に駆けつけ、二分でエルヴィンが剣を持って走ってきた。グリゼルダは完全武装だった。寝ていたはずなのに完全武装だった。この人は鎧を着たまま寝ているのかもしれない。
「魔王殿。何があった」
「虚淵。複数箇所で同時に——たぶん七箇所。いや、八箇所かも。増えてる。今も増えてる」
フェリクスの顔から血の気が引いた。この男が動揺するのは珍しい。
「同時多発……。感知できる範囲は」
「わからない。でも——遠い。すごく遠い場所もある。大陸の端の方まで」
フェリクスが地図を広げた。ヴァルゼンが指さす方角を次々に記録していく。
「北東——ファルガン辺境方面。北西——沿岸部。南——グラウザル領域の縁。南西——」
指さすたびに、フェリクスの表情が険しくなった。
「これは……大戦の主要激戦地が、ほぼ全て同時に崩壊し始めている」
エルヴィンが拳を握りしめた。
「一箇所ずつ潰していくしかないのか」
「物理的に不可能です。この距離を移動している間に、最初の地点が手遅れになる」
沈黙が落ちた。
ヴァルゼンの全身は今も震えていた。世界中の脈点が同時に叫んでいる。その声が、訓練で鋭くなった感覚を通じて、直接頭の中に流れ込んでくる。
(痛い。世界が痛がってる。止められない。僕じゃ止められない——)
「魔王殿」
グリゼルダの声が、ヴァルゼンの混乱を断ち切った。
「今、この場でできることは何だ」
その問いは、いつもの簡潔さだった。武人の問い。感情を排し、状況を見極め、最善を求める問い。
ヴァルゼンは深呼吸した。震えは止まらなかった。だが、グリゼルダの声が錨になった。
「……一番近い場所だけでも。王都の北東、半日の距離に——大きな虚淵が開きかけてる」
「行こう」
エルヴィンの決断は一瞬だった。
夜明け前に王都を発った。馬を飛ばし、朝日が昇る頃には北東の平原に到着した。
そこには、すでに虚淵が口を開けていた。
直径にして百メートル。平原の一角が、まるで巨大な穴に飲み込まれるように消えていた。破壊の痕跡はない。瓦礫もない。ただ、そこにあったはずのものが——草も、土も、空気さえも——消えている。存在そのものが、削り取られていた。
「これが……虚淵」
エルヴィンが呟いた。何度も見た光景のはずだが、その声には慣れのない恐怖があった。
虚淵の縁は、今もじわじわと広がっていた。
ヴァルゼンは限界まで魔力感知を研ぎ澄ませた。三日間の訓練で掴んだコツを総動員した。目を閉じ、意識を地下に沈める。脈点の位置を探る。
(ある。虚淵の真下に——壊れかけた脈点がある。魔力の流れが途切れかけている。このままだと——)
「脈点が見えた。虚淵の中心、地下二十メートルくらい。魔力の流れが細い糸みたいになってる。切れかけてる」
「対処法は」
「わからない! でも——前に虚淵の核を封じた時みたいに、魔力を注ぎ込めば一時的に持つかもしれない!」
フェリクスが素早く指示を出した。ミラベルの回復魔法を増幅器として使い、フェリクスの空間制御魔法で虚淵の拡大を遅延させ、エルヴィンとグリゼルダが周辺住民の避難を誘導する。ヴァルゼンは魔力感知で脈点の状態を監視し、パーティの魔力注入を最適な場所に誘導する。
作業は三時間に及んだ。
結果として、虚淵の拡大は止まった。脈点は細い糸のような状態で辛うじて繋がっている。だが、それは応急処置に過ぎなかった。
「止めたのではない。遅らせただけだ」
グリゼルダの言葉が、全員の認識を代弁していた。
ヴァルゼンは地面に座り込んでいた。立つ力が残っていなかった。魔力感知を限界まで酷使した反動で、頭の中がぐわんぐわんと揺れていた。
「他の場所は……まだ七箇所が……」
「魔王殿。今は休むべきです」
フェリクスの声が遠い。
「休んでる場合じゃ——」
言いかけて、視界が傾いた。
倒れかけたヴァルゼンの体を、エルヴィンが支えた。勇者の腕は温かかった。
「お前は十分やった」
「でも、まだ——」
「ヴァルゼン」
エルヴィンの声が、いつもの陽気さを捨てて低くなった。
「俺の剣では虚淵を斬れない。お前が倒れたら、誰がこいつらを見つけるんだ。だから——休め。お前を守るのは俺の仕事だ」
(エルヴィン……)
ヴァルゼンの目が熱くなった。涙ではない。たぶん疲労のせいだ。たぶん。
「……ごめん。少しだけ」
「少しじゃなくていい。しっかり寝ろ」
エルヴィンの肩にもたれたまま、ヴァルゼンの意識は急速に遠のいた。
壁にもたれかかり、泥のように眠るヴァルゼンを見下ろして、グリゼルダが呟いた。
「世界の危機の最中に眠れる胆力。やはり、真の強者だけが持つ資質だな」
(違う。限界で意識が飛んだだけだ)
——と反論する声は、すでに寝息に変わっていた。




