覚悟を口にした翌朝、ヴァルゼンは布団から出られなかった。
覚悟を口にした翌朝、ヴァルゼンは布団から出られなかった。
(昨日の僕は何を言ったんだ。「僕にできることがあるなら、やる」? かっこいいこと言った気がするけど、冷静に考えて何もできないじゃないか。魔力循環の管理? 僕は紅茶の温度管理すらまともにできない人間だぞ。いや魔族だけど)
布団を頭まで被って丸くなる。朝日が窓から差し込んでいたが、ヴァルゼンの心は真冬だった。
扉を叩く音がした。
「陛下。お目覚めでしょうか」
ザガンの声だ。平坦で落ち着いた、いつもの声。
「……ザガン。今日は具合が悪いから寝ていていい?」
「フェリクス殿が訓練計画を策定されました。魔力感知の精度を実戦水準まで引き上げるための訓練です。本日から開始とのことです」
(早い。早すぎる。昨日覚悟を決めたばかりだぞ。一晩くらい感傷に浸らせてくれ)
渋々布団から這い出したヴァルゼンを待っていたのは、フェリクスが一晩で作り上げた訓練計画書だった。羊皮紙三枚にびっしりと書き込まれた工程表を見た瞬間、ヴァルゼンは布団に戻りたくなった。
「まず基礎訓練として、王都周辺の脈点を感知する練習を行います」
フェリクスの説明を聞きながら、ヴァルゼンは作戦室の椅子に深く沈んでいた。
「脈点とは、地中の魔力源から地上に魔力が噴出する場所です。王都アルヴェスタの周辺には小規模な脈点が四箇所確認されています。まずはこれらを感知できるかどうか」
「あの、フェリクスさん。僕がやってきた魔力感知って、『なんか嫌な感じがする』っていう程度のものなんですけど」
「ええ。その『なんか嫌な感じ』で虚淵の核を特定し、都市一つを救ったわけですが」
(いや、あれは本当にたまたまで)
「謙遜は不要です、魔王殿。むしろ、自覚なく世界規模の異変を感知できるということは、意識的に集中すればさらに精度が上がる可能性が高い」
エルヴィンが腕を組んで大きく頷いた。
「よし。で、俺は何をすればいい」
「エルヴィン殿は護衛をお願いします。訓練中の魔王殿は無防備になりますので」
「任せろ!」
(護衛が必要なくらい無防備になるの? 聞いてないんだけど)
こうして、ヴァルゼンの魔力感知訓練が始まった。
王都の東門を出て、小高い丘の上。フェリクスの調査によれば、この丘の地下に小規模な脈点があるはずだった。
「では、魔王殿。目を閉じて、意識を地下に向けてください」
ヴァルゼンは言われるがまま目を閉じた。
風が頬を撫でた。草の匂い。遠くで鳥が鳴いている。
(意識を地下に向ける、って言われても。何をどうすれば——)
集中しようとした。だが、集中すればするほど雑念が湧いた。今日の昼食は何だろう。さっきエルヴィンが剣を磨いていたけど刃こぼれしていなかっただろうか。ミラベルが今朝くしゃみをしていたけど風邪ではないだろうか。
(だめだ。全然集中できない)
「何か感じますか」
「……すみません。何も」
「焦る必要はありません。もう少し時間をかけましょう」
十分が経った。二十分が経った。
ヴァルゼンの額に汗が滲んだ。集中しようとすればするほど、何も感じない自分に焦りが募った。
(やっぱり僕には無理なんだ。あの時の感知だって偶然だったんだ。世界を救うなんて——)
その時だった。
ほんの微かに、足の裏がぴりっとした。
静電気のような、くすぐったいような。地面の下から、何かが脈打っている感覚。
「……あ」
「どうしました」
「なんか……足の裏がぴりぴりする」
フェリクスの目が光った。
「方角は」
「えっと……右の、斜め前? 三十歩くらい先かな」
フェリクスが地図を確認した。そして、モノクルの奥で静かに目を見開いた。
「……正確です。脈点の位置と完全に一致しています」
(え、本当に?)
「しかも、記録上の推定深度から逆算した地上での感知強度を考慮すると、これほどの距離で正確に位置を特定できるのは——」
フェリクスが言葉を切った。
「驚異的です、魔王殿」
(驚異的って。足の裏がぴりぴりしただけなんだけど)
エルヴィンが背後で歓声を上げた。
「さすがだ、ヴァルゼン! 初回でいきなり成功するとは!」
グリゼルダも丘の麓から見守っていたらしく、満足げに頷いた。
「やはり。この方に不可能はないようだ」
(ある。不可能だらけだ。剣も振れないし魔法も撃てないし料理も下手だ)
だが、足の裏のぴりぴりは確かに本物だった。
二箇所目の脈点でも、三箇所目でも、ヴァルゼンの感知は正確だった。四箇所目に至っては、フェリクスが記録していなかった微小な脈点まで感知してしまい、フェリクスが無言で羊皮紙に追記する羽目になった。
「……五箇所目。記録にない脈点です」
「ごめんなさい。余計なの見つけちゃったかな」
「いいえ。魔王殿の感知精度が、既存の記録を上回っているだけです」
(それは褒められているのか。たぶん褒められているんだろうけど、なぜか背筋が寒い)
訓練を終えて作戦室に戻ると、ベリオスが壁にもたれて待っていた。
元強硬派の将軍。かつてヴァルゼンに反旗を翻し、今は帰順して大人しくしている大男。ヴァルゼンはこの男がまだ少し怖かった。
「聞いた。脈点を全て感知したそうだな」
「あ、うん。まあ、偶然——」
「先代にも同じことができたと聞いている」
ベリオスの声は低く、感情を排した響きだった。だが、ヴァルゼンの魔力感知は——訓練で少しだけ鋭くなったそれは——ベリオスの内側に渦巻く複雑な感情を、ほんの微かに拾っていた。
(この人……驚いてる? いや、驚いているだけじゃない。何か別の感情が混じっている。期待? 困惑? よくわからない)
「……お前は、先代とは違う魔王になるんだろうな」
ベリオスはそれだけ言って、踵を返した。
ヴァルゼンはその背中を見送りながら、自分の手のひらを見下ろした。
(先代とは違う魔王。僕が? 冗談だろ。先代は大陸を震撼させた覇王で、僕はゴブリンにも勝てない最弱の魔王だ。違うのは当たり前だ。圧倒的に劣っている方向に違うんだ)
だが、足の裏に残るぴりぴりとした感覚が、確かにそこにあった。
世界が脈打っている。
その鼓動を、ヴァルゼンだけが聞いていた。




