止めたのではない、遅らせただけだ。
止めたのではない、遅らせただけだ。
フェリクスのその一言が、ヴァルゼンの背筋を凍らせた。
虚淵の核を封じてから、まだ半日しか経っていなかった。大都市グランヴェールの半分が消滅の淵から救われ、住民たちは歓喜に沸いた。魔王様のおかげだ、と。勇者パーティ万歳、と。
ヴァルゼンは、その歓声の中で立ち尽くしていた。
(あの、皆さん、僕はただ「なんか嫌な感じがする方角」を指差しただけなんですが……)
しかしフェリクスは、歓喜の輪に加わらなかった。モノクルを押し上げ、手帳に何かを書き殴りながら、淡々と告げたのだ。
「魔王殿。あの封印は一時的なものです。虚淵の発生源そのものが消えたわけではない。我々は火を消したのではなく、蓋をしただけだ」
エルヴィンが眉を寄せた。
「どういうことだ、フェリクス」
「簡単に言えば、再発します。しかも次はより大きな規模で」
沈黙が落ちた。
ヴァルゼンは、実のところフェリクスの言葉を聞く前から気づいていた。虚淵の核を封じた瞬間、確かに「嫌な感じ」は薄れた。だが消えてはいなかった。地の底から、ごく微かに、しかし確実に——何かが軋むような感覚が残っていた。
(わかってた。わかってたけど、言いたくなかった。だって言ったら、また僕がなんとかしなきゃいけないことになるじゃないか……)
「各地の報告を整理しました」
フェリクスが手帳を開いた。彼の指先が、びっしりと書き込まれたページの上を滑る。
「この三日間で、確認された虚淵の発生件数は十七。うち大規模なものが四件。発生間隔は加速しており、一週間前と比較して約三倍のペースです」
「三倍……」
グリゼルダが腕を組んだ。蒼灰色の瞳が険しく細められている。
「先日のグランヴェールの一件を含め、いずれも大都市近郊で発生しているな。偶然か?」
「偶然ではありません」
フェリクスの声に、珍しく鋭さが宿った。
「虚淵は脈点の損傷箇所から発生します。そして脈点は、歴史的に都市が建設される場所と重なる。魔力が豊富な土地に人は集まりますから。つまり——」
「都市が多い場所ほど、虚淵の危険が高い」
エルヴィンが拳を握った。
「なんてことだ。人が多い場所ほど危ないということか」
(そう、そういうことなんだよ。いやほんと、なんてことだよ……)
ヴァルゼンは疲労で重い体を椅子に沈めた。グランヴェールでの核の封印に、魔力感知を限界まで酷使したのだ。頭の奥がずきずきと痛む。視界が時折ぼやける。
ミラベルが、そっとヴァルゼンの傍に来て治癒の光を灯した。温かな光が頭痛を和らげていく。
「ヴァルゼン様、無理をなさりすぎです……」
「あ、ありがとう、ミラベル。大丈夫、少し疲れただけだから」
「大丈夫ではありません。あの時のヴァルゼン様、魔力を使い果たす寸前でした。もし倒れていたら——」
ミラベルの翡翠色の瞳が潤み始めた。泣く。確実に泣く。ヴァルゼンは慌てて両手を振った。
「ほ、本当に大丈夫だから! ね? ほら、こうしてちゃんと座ってるし!」
エルヴィンがヴァルゼンの肩に手を置いた。大きな手だった。温かくて、重かった。
「ヴァルゼン。お前が限界まで感知を使ってくれたから、グランヴェールの住民は助かった。それは事実だ」
「いや、あの、僕はただ——」
「だが」
エルヴィンの碧い目が、真っ直ぐにヴァルゼンを見つめた。
「フェリクスの言う通り、このままでは根本的な解決にならない。次に虚淵が発生したら、また同じことを繰り返すだけだ」
(知ってる。知ってるよ、エルヴィン。だから困ってるんだよ……)
「俺の剣では、虚淵は斬れない」
エルヴィンが、静かに、しかしはっきりと言った。
パーティの空気が変わった。勇者が自らの無力を認めたのだ。グリゼルダの目が見開かれ、フェリクスのペンが止まり、ミラベルが涙を堪えるように唇を噛んだ。
「だがな、ヴァルゼン」
エルヴィンの手が、ヴァルゼンの肩を強く握った。
「俺の剣では斬れなくても——お前を支えることはできる。お前が感知を使って虚淵に立ち向かう時、お前が倒れないように、俺がここにいる」
(エルヴィン……)
ヴァルゼンの目頭が熱くなった。怖かった。虚淵に向き合うのは、とてつもなく怖かった。自分の体が削られていくような感覚。あと少し遅ければ本当に倒れていた。次があるなら、もっとひどいことになるかもしれない。
でも——この勇者は、自分の最大の武器である剣が役に立たないと知りながら、それでも傍にいると言ってくれている。
「……ありがとう、エルヴィン」
小さな声だった。震えてもいた。だがエルヴィンは、その声を聞いて満足そうに頷いた。
「ふっ。礼を言うのはこっちだ。お前がいなければ、グランヴェールは今頃消えていた」
(いやだからそれは僕の手柄じゃなくて、皆の魔法を組み合わせた結果であって……もういいか。訂正しても無駄だし)
ザガンが、三歩後ろの定位置から静かに口を開いた。
「陛下。次の虚淵の発生に備え、各地の報告を精査する必要があります。フェリクス殿と共同で分析を進める許可をいただければ」
「あ、う、うん。お願いします、ザガン」
「畏まりました」
ザガンが恭しく頭を下げた。その琥珀色の瞳は、ヴァルゼンの疲弊した顔色を見逃していなかった。
(陛下は気づいておられる。この脅威が一時凌ぎでは済まないことを。だからこそ、あの疲労にもかかわらず席を立とうとしない。……さすがは陛下だ。我々に安堵の暇を与えず、次の手を求めておられる)
ヴァルゼンは椅子から立ち上がれないだけだった。足が痺れていたのである。
窓の外では、グランヴェールの住民たちの歓声がまだ続いていた。救われた喜び。明日への安堵。
だがその地の底で、世界は軋み続けていた。ヴァルゼンだけが感じ取れる、微かな悲鳴のように。
(次は、いつ来るんだろう)
その問いの答えは、思ったよりもずっと早く訪れることになる。




