虚淵の核
虚淵の核
大都市グランヴェールが悲鳴を上げていた。
到着した時点で、都市の北西区画——商業地区の約四割が消失していた。虚淵の闇が建物を呑み込み続けている。道が消える。壁が消える。窓から見える景色が、一瞬で暗黒に変わる。
「規模が違う——!」
エルヴィンが叫んだ。
エスターシュの比ではなかった。消失の速度が段違いに速い。目の前で建物の角が削り取られていく。まるで巨大な何かが、都市を端から齧っているように。
「避難は?」
「北西区画の住民は八割が脱出済み。だが拡大速度がこのままなら、中心街に到達するのは——」
フェリクスが時計を見た。
「約三時間」
中心街には数万人がいる。三時間では全員の避難は不可能だ。
(三時間。三時間で——)
ヴァルゼンの頭が真っ白になりかけた。しかし、もう真っ白になっている場合ではないと、体の奥の何かが告げていた。
「フェリクスさん。虚淵を止める方法は——」
「封じることが可能かもしれません。エスターシュでは自然に停止しましたが、今回は規模が大きすぎる。自然停止を待てば都市が消えます」
「何か——方法は」
「虚淵には核がある、と私は仮説を立てています。発生源となる一点——脈点の損傷箇所です。もし核を特定して、そこに集中的に魔力を注入すれば、一時的に封じられるかもしれない」
「核を見つけるには?」
フェリクスがヴァルゼンを見た。
「魔王殿の感知に頼るしかありません」
ヴァルゼンは唾を飲んだ。
(見つけろ、と。この巨大な虚淵の中から、核を一つだけ——)
目を閉じた。
感覚を広げた。
虚淵の冷たい淀みが、津波のように押し寄せてきた。エスターシュの時とは桁が違う。巨大な闇が、感知の全域を覆い尽くしている。方向も距離もわからない。ただ冷たい。どこもかしこも冷たい。
(——ダメだ。大きすぎて全体像が掴めない。冷たさに飲み込まれそうだ)
頭が痛い。こめかみが軋む。意識が霞みかける。
「ヴァルゼン様、無理をしないで——」
ミラベルの声が遠くから聞こえた。
(でも——止めなきゃ。三時間後に中心街が消える。何万人もの人が。それを止められるのが、僕の感知だけだっていうなら——)
感覚の焦点を絞った。
全体を見ようとするからダメなのだ。エスターシュで学んだことがある。地面に触れると精度が上がる。
ヴァルゼンは膝をつき、両手を地面に押しつけた。
冷たい石畳の感触。その下の土。その下の——魔力の流れ。
(ある。微かに——流れている。魔力の道があるんだ。地下に)
流れを辿った。感覚を糸のように細く伸ばし、地下の魔力の道を手繰っていく。
冷たい。暗い。でも——道がある。
北へ。北西へ。どんどん深く。
そして——見つけた。
「あった——!」
声が出た。
「北西の——ここから約八百メートル。地下。深い。すごく深いところに——穴がある。そこから冷たいのが噴き出してる」
「座標は確認しました」フェリクスが即座に地図に印をつけた。「北西八百メートル——旧市場の地下か。問題は、その上がすでに虚淵の範囲内だということです」
「虚淵の中に入るのか?」エルヴィンが声を上げた。
「核を封じるには、核に直接魔力を注入する必要があります。つまり——」
「虚淵の端から魔法を撃ち込むってことか」
「はい。ただし、核の正確な位置がわからなければ届かない。魔王殿に誘導していただく必要がある」
ヴァルゼンは立ち上がった。膝が震えていた。
「僕が——案内する。核の場所を感じながら、皆の魔法を誘導する」
(何を言ってるんだ僕は。虚淵の縁に立って、皆の魔法を正確に導くなんて。失敗したら都市が消える。何万人もの命が——)
「行きましょう」
フェリクスが頷いた。
虚淵の縁は、恐ろしかった。
一歩近づくだけで、全身の毛が逆立つ。存在の欠落。そこに足を踏み入れたら——自分もまた、消える。
ヴァルゼンは虚淵の縁に立ち、両手を前に伸ばした。感知を全開にした。核の位置を探る。地下八百メートル先の——あの冷たい噴出点を。
「見える——感じる。あそこだ。地下深く——そこに穴がある」
「魔力を集中させます」
フェリクスが杖を構えた。グリゼルダが魔力を込めた剣を翳した。ミラベルが聖なる光を灯した。エルヴィンは——剣を鞘に収めたまま、ヴァルゼンの背中を支えた。
「倒れるなよ」
「……うん」
「方向は——もう少し左! 下に! そう、そこ——今!」
四人の魔力が、ヴァルゼンの誘導に従って一点に集中した。
虚淵の闇の中で、何かが軋んだ。
そして——止まった。
拡大が、止まった。
虚淵の縁が、それ以上広がるのをやめた。
「——封印成功」
フェリクスの声が、かすれていた。
ヴァルゼンの視界が暗くなった。感知を限界まで酷使した反動が、一気に来た。膝が折れ——
エルヴィンの腕が、ヴァルゼンを支えた。
「やったぞ、ヴァルゼン。お前がやったんだ」
(僕じゃない。皆の魔法が——僕はただ、方向を指さしただけで——)
意識が薄れていく中で、都市の南側から歓声が聞こえた。
「止まった——! 虚淵が止まった——!」
「魔王様が止めたぞ——!」
ヴァルゼンは、エルヴィンの腕の中で意識を手放した。
他の誰にもできないことを、最弱の魔王はやってのけた。本人だけが、そのことに気づいていなかった。




