剣では斬れない
剣では斬れない
ヴェルナ砦の跡地に着いたとき、エルヴィンは剣を抜いた。
条件反射だった。脅威を前にすれば剣を抜く。それが勇者の本能であり、訓練であり、生き方だった。
虚淵の縁に立ち、碧い目でその深淵を睨みつけ——聖剣を振り下ろした。
刃が虚淵に触れた瞬間、何も起きなかった。
斬れなかった。手応えがなかった。空気を斬るのとも違う。そこに「何か」がないのだ。斬るべき対象が存在しない。虚淵は破壊ではない。消失だ。存在そのものがない場所に、剣を振るうことに意味はなかった。
「……これは」
エルヴィンが呟いた。
もう一度振った。三度振った。横薙ぎ。袈裟斬り。突き。あらゆる角度から。聖剣に宿る魔力を全開にして。
結果は同じだった。
「剣では——斬れない」
その言葉が、エルヴィンの口から漏れた。
ヴァルゼンは後方で、その光景を見ていた。
(エルヴィン——)
これまで見たことのないエルヴィンの表情だった。戸惑い。困惑。そして——恐怖、ではない。もっと深い何か。自分が自分でなくなるような、足元が崩れるような表情。
「エルヴィン」
グリゼルダが声をかけた。
「私も試みたが、結果は同じだ。物理攻撃は一切通用しない」
「魔法もです」フェリクスが補足した。「攻撃魔法、属性魔法、封印魔法——いずれも効果なし。虚淵は『存在の欠落』であって、破壊すべき対象が存在しない。壊せないのではなく、壊す相手がいないのです」
エルヴィンが剣を鞘に収めた。その動作が、いつもより遅かった。
「……俺の剣が、役に立たないのか」
誰も、即座には答えなかった。
ヴァルゼンは——何か言わなければ、と思った。でも何を言えばいいのかわからなかった。エルヴィンの剣は、これまでずっとパーティを守ってきた。魔物を倒し、敵を退け、仲間を守り続けてきた。その剣が通じない相手が現れた。それがどれほどの衝撃なのか——ヴァルゼンには想像しかできなかった。
(僕は元から弱いから、「役に立たない」のは日常だ。でもエルヴィンにとっては——初めてなんだ)
虚淵の縁を調査しながら、パーティは慎重に移動していた。
その最中に——ヴァルゼンが転んだ。
虚淵の縁の地面がもろくなっていたのだ。足を踏み出した瞬間、土が崩れ、ヴァルゼンは見事に前のめりに倒れた。
「わっ——!」
顔面から地面に突っ込んだ。口の中に砂が入った。
「ヴァルゼン様!」
ミラベルが駆け寄った。
「大丈夫ですか!? お怪我は——」
「だ、大丈夫……砂が……口に……ぺっ、ぺっ」
砂を吐き出しながら起き上がろうとした。だがミラベルの表情が変わった。
「ヴァルゼンさま。もしかして——大地の声を聞くために身を伏せられたのですか」
(は?)
「虚淵の根源は地中にある。地面に身を伏せることで、地中の魔力の流れを直接感じ取ろうとされたのでは……」
(転んだだけだ。純粋に。単純に。足元がぐずぐずで転んだだけだ)
しかしフェリクスの目が光った。
「——なるほど。地面との接触面積を増やすことで感知の精度を上げる。理論的には一考の余地がある。実際に試してみましょう」
(試さなくていい。転んだだけだから)
だが成り行きで、ヴァルゼンは地面に手を当てて感知を試みることになった。
結果——確かに、地中の魔力の流れが、立っている時よりも鮮明に感じ取れた。
「……あ、本当だ。地面に触れてると、何かが流れてるのがわかる。ここの地下に——すごく冷たいものがある」
「虚淵の発生源です」フェリクスが即座にメモした。「地面との直接接触で感知精度が向上する。これは重要なデータだ」
(偶然だよ。偶然転んだだけだよ)
その夜、野営の焚火の前で、エルヴィンは一人で剣を見つめていた。
ヴァルゼンは水を持って近づいた。
「エルヴィン」
「ああ」
「その——大丈夫?」
「何がだ」
「剣が、通じなかったこと」
エルヴィンが顔を上げた。碧い目に、焚火の光が映っていた。
「……大丈夫じゃないな。正直に言うと」
勇者が、正直に弱さを認めた。ヴァルゼンは少し驚いた。
「俺の人生は剣だった。剣で敵を倒し、剣で民を守り、剣で仲間を支えてきた。それが——通じない。何も斬れない。俺は今、この虚淵の前ではただの傍観者だ」
「傍観者なんかじゃ——」
「いいんだ、ヴァルゼン」
エルヴィンが微笑んだ。寂しい笑みだったが、温かかった。
「お前を見てて思うんだ。お前はずっと、戦えない中で戦ってきただろう。剣が使えなくても、魔法が使えなくても——お前はいつも、自分にできることを探して足掻いてきた」
(いや、足掻いてたんじゃなくて必死に逃げてただけなんだけど——)
「だから——俺もそうする。剣が斬れないなら、剣以外の何かで」
エルヴィンがヴァルゼンの肩を叩いた。
「お前を支えることはできる。お前が感知で世界に向き合うとき、お前が倒れないように——俺がここにいる。それが、今の俺にできることだ」
ヴァルゼンの目が熱くなった。
(エルヴィン——)
「ありがとう」
小さな声だった。でも、心の底からの言葉だった。
焚火の向こうで、グリゼルダが静かに頷いていた。フェリクスの手帳の上で、ペンが止まっていた。ミラベルが祈るように手を組んでいた。
剣では斬れない敵の前で、勇者は新しい戦い方を見つけようとしていた。
それは——最弱の魔王が、ずっと続けてきた戦い方と同じだった。




