消えた街区
消えた街区
王都から馬車で半日の距離にある港町、エスターシュ。
到着したとき、その町の三分の一は——なかった。
「……これは」
エルヴィンの声が固かった。
町の北区画が丸ごと消えていた。家も、道も、井戸も、木も。まるで巨人が地面ごとくり抜いたかのように、そこにはただ——虚空があった。
断面は恐ろしいほど滑らかだった。切り取られた地面の縁から覗くと、底は見えなかった。黒い。底のない黒。光すら飲み込む暗黒が、かつて街区があった場所を埋め尽くしていた。
(これが——虚淵)
ヴァルゼンの全身に鳥肌が立った。
虚淵の報告は聞いていた。フェリクスの分析データも見た。しかし実際に目の当たりにすると——報告書の文字では伝わらない恐怖が、腹の底から込み上げてくる。
(消えたんだ。ここに住んでいた人たちが。家が。暮らしが。全部)
「避難民はこちらです」
町の南区画に設けられた臨時の避難所に、数百人の住民が身を寄せ合っていた。毛布にくるまった子供。茫然と座り込む老人。声を上げて泣く女性。
ヴァルゼンの足が止まった。
昨日の夕方——感じていたのだ。胸の奥に冷たい淀みが広がるような、嫌な感覚を。
(あの時、すぐに言っていれば——)
「ヴァルゼン様」
フェリクスの声が、ヴァルゼンの思考を引き戻した。
「自分を責めるのは後にしてください。今、この町の残りの区画にも虚淵が拡大する兆候があります。まず避難の範囲を確定させなければ」
フェリクスの目が鋭かった。感情を排した、純粋な知性の目。
「魔王殿の感知能力が必要です。虚淵がどの方向に拡大しようとしているか、感じ取れますか」
(感じ取れるかどうかじゃなくて——感じ取らなきゃいけない)
ヴァルゼンは目を閉じた。
恐怖を押し殺して、意識を集中させた。胸の奥の感覚に手を伸ばす。冷たい淀み。暗い穴。世界の傷口。
感覚が広がった。
北区画の虚淵は——東に向かっている。ゆっくりと、しかし確実に。港の方角だ。
「東です。港に向かって広がってる。速度は——遅い、けど、止まってはいない」
「了解。避難範囲を東側に拡大。グリゼルダ殿、港区画の住民の誘導を」
「承知した」
グリゼルダが走った。鎧の音が遠ざかっていく。
エルヴィンが剣に手をかけた。
「俺にできることは」
「虚淵を斬ることはできません」フェリクスが即答した。「避難誘導の補助を。勇者の姿が見えれば住民が安心します」
「わかった」
エルヴィンが駆けていった。
ミラベルは避難所の治癒にあたっていた。怪我人は少なかったが、恐怖で体調を崩した者が多かった。
「ヴァルゼン様」
フェリクスがヴァルゼンに向き直った。
「虚淵の拡大方向を感知し続けてください。変化があれば即座に知らせてください」
「わ、わかった」
ヴァルゼンは町の高台に立ち、感知を続けた。冷たい淀みの動きを追う。東。ゆっくり東。港に向かって——
突然、感覚が跳ねた。
「——南にも来る!」
叫んだ。
「南区画に向かって、新しい枝が——」
フェリクスの目が見開かれた。
「避難所が南区画にある! 全員移動!」
そこからは怒涛だった。ザガンが即座に指揮を取り、避難民を西の丘陵地帯へ誘導した。グリゼルダが港区画の住民を背負って走った。エルヴィンが泣きじゃくる子供を両腕に抱えて全速力で駆けた。
ヴァルゼンは高台で感知を続けた。虚淵の動きを一秒ごとに報告した。恐怖で体が震えていたが、目を閉じることだけはやめなかった。
二時間後——虚淵の拡大が止まった。
止まった、というより、力を使い果たしたようだった。淀みの密度が薄まり、広がる勢いが消えた。
「停止を確認」
フェリクスが告げた。
高台の上で、ヴァルゼンは膝から崩れ落ちた。
「ヴァルゼン様!」
ミラベルが駆け寄り、治癒の光を灯した。
「大丈夫……ちょっと、疲れた、だけ……」
(疲れたなんてもんじゃない。感知を二時間ぶっ通しで使ったら頭の中が空っぽになった。脳みそがスポンジみたいだ)
避難は間に合った。新たな犠牲者は出なかった。
フェリクスが手帳を閉じ、静かに言った。
「虚淵の拡大方向を二方向同時に感知し、リアルタイムで報告し続けた。他の誰にもできない芸当です」
(芸当じゃない。必死だっただけだ)
「ヴァルゼン様の感知がなければ、南区画の避難民は全員飲まれていた。——ありがとうございます」
フェリクスが頭を下げた。あの冷徹な賢者が、心の底から礼を言っている。
ヴァルゼンは答えられなかった。疲労で声が出なかった。
代わりに——小さく頷いた。
丘の上では、避難した住民たちが口々に囁いていた。
「魔王様が虚淵の動きを読んでくれたから助かった」
「あの方がいなかったら——」
「未来を見通す魔王の感知能力。噂は本当だったんだ」
(未来を見通してない。嫌な感じがする方向を指さしただけなんだ。でも——今は、訂正する気力もない)
エスターシュの空は曇っていた。消えた街区の跡地から、冷たい風が吹き上がっていた。
世界が壊れ始めている。それだけは——ヴァルゼンにもはっきりとわかった。




