各地からの悲報
各地からの悲報
翌朝、ヴァルゼンが食堂で朝食をとっていると、フェリクスが血相を変えて飛び込んできた。
フェリクスが血相を変える。それだけで、ただごとではないとわかった。あの男はどんな状況でも冷静に分析を続ける。感情を表に出すことを、知性の敗北と捉えているような人間だ。
そのフェリクスの額に、汗が滲んでいた。
「緊急報告です」
手にした紙束を、テーブルの上に広げた。
「昨夜から今朝にかけて、三件の虚淵発生が確認されました。いずれも過去最大規模です」
ヴァルゼンの手から、パンが落ちた。
(三件——同時に?)
「一件目。東部のガレイス市。港湾区画の約三割が消失。住民の避難は間に合わず、推定二百名が行方不明」
フェリクスの声が淡々と事実を読み上げる。しかしその指先が、微かに震えていた。
「二件目。南部のフェリオン平原。農業地帯の一帯が丸ごと消えた。面積にして王都の約二倍。作物も家畜も人も——何もかもが」
(消えた——?)
「三件目。北部のヴェルナ砦。軍事拠点として機能していた要塞が、一夜にして消滅。駐留兵五百名の安否は不明」
テーブルを囲むパーティの全員が、沈黙した。
エルヴィンが最初に口を開いた。
「規模が違いすぎる。今までの虚淵は、せいぜい村一つ分だった」
「ええ」フェリクスがモノクルを押し上げた。「明らかに加速しています。発生頻度も規模も、指数関数的に増大している」
グリゼルダが席を立った。
「出撃か」
「それが——」フェリクスが言いよどんだ。「三件が同時発生しています。我々が一箇所に向かっている間に、他の二箇所が拡大する可能性がある」
ミラベルが両手を組んで祈りの姿勢をとった。その目が潤んでいるのを、ヴァルゼンは見てしまった。
(二百名が行方不明。農業地帯が丸ごと消えた。五百人の兵士が——)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
昨夜感じたあの違和感。あの冷たい淀み。あれが——この三件の予兆だったのだ。
(わかっていた。僕は昨日の夕方の時点で、何かが起きていると感じていた。でも何もしなかった。気のせいだと思った。もし、あの時すぐに報告していれば——)
「ヴァルゼン様」
フェリクスの声が、ヴァルゼンの思考を断った。
ヴァルゼンは顔を上げた。自分が蒼白になっていることは自覚していた。血の気が引くというのは、比喩ではなく本当に起きるのだと、改めて知った。
フェリクスがヴァルゼンの顔を凝視した。その瞳に、驚愕と畏怖が混ざった光が走る。
「——やはり。この方はもう原因に気づいておられるのでは」
(え?)
「蒼白になられた。報告を聞く前から、すでに何かを察知されていた。あの虚淵の発生パターン、あるいはその背後にあるメカニズムにまで——」
(いや違う。怖くて血の気が引いただけだ。原因なんてわかるわけがない)
「フェリクス」エルヴィンが低い声で言った。「分析は後だ。今は動く」
「承知しています。ただ、一つ確認させてください」
フェリクスがヴァルゼンに向き直った。
「ヴァルゼン様。三件の虚淵のうち、今もっとも危険なのはどれですか」
(知るか! 全部危険だろう! なんで僕に訊くんだ!)
しかし——。
ヴァルゼンは目を閉じた。正確には、怖さのあまり目を瞑っただけなのだが。
暗闇の中で、感覚が研ぎ澄まされた。
胸の奥に残る、あの冷たい淀みの感触。それが三方向に枝分かれしている。東。南。北。
東は——冷たいが、どこか安定している。淀みが広がる速度が遅い。
南は——広い。途方もなく広い。だが密度は薄い。
北は——。
背筋が凍った。
「……北です」
声が掠れていた。
「北のヴェルナ砦。あそこが——いちばん、まずい」
「根拠は?」
「わかりません。ただ——あそこだけ、感触が違うんです。他の二つは広がっているだけですけど、北のは——深い。底が見えないくらい深くて、まだ広がろうとしている」
フェリクスの目が光った。手帳を取り出し、猛烈な速度で書き始めた。
「三件の虚淵の危険度を瞬時に序列化。しかも『拡散速度』と『深度』という二つのパラメータで区別している。この感知精度は——」
「フェリクス」エルヴィンが遮った。「後だと言っただろう」
「——失礼。しかしこれは記録すべき事象です」
エルヴィンが立ち上がり、剣の柄に手を置いた。
「北に向かう。グリゼルダ、先行して避難誘導を。ミラベル、治癒の準備を。フェリクス、王都に連絡して残り二件への対応部隊を要請しろ」
「了解」
グリゼルダが即座に動いた。鎧の金属音が廊下に響く。
ミラベルが杖を握り、祈りの言葉を唱え始めた。
フェリクスが伝書用の魔道具を取り出した。
エルヴィンがヴァルゼンの肩に手を置いた。
「お前の感覚を信じる。行くぞ」
(行く。行くのか。虚淵に向かって行くのか。あの、何もかもを消す現象に向かって——)
ヴァルゼンの足は震えていた。
だが、立ち上がった。
昨日感じた違和感を「気のせいだ」と流した自分を、許せなかったから。
(もう見て見ぬふりはしない。できない。あの消えた人たちのことを思うと——)
震える足で、一歩を踏み出した。
窓の外では、北の空に薄い灰色の雲がかかっていた。まるで世界が、悲鳴を上げる準備をしているかのように。




