新しい日常の始まり
新しい日常の始まり
共存政策が始まって一週間。ヴァルゼンの日常は、以前とは比較にならないほど忙しくなっていた。
いや、「忙しい」という表現は正確ではない。「巻き込まれる頻度が激増した」というべきだろう。
(なんで僕が仲裁役なんだ……)
目の前では、人間の料理人と魔族の食糧担当官が、食堂の運営方針をめぐって睨み合っていた。共存政策の一環として設けられた合同食堂——人間と魔族が同じ場所で食事をとるという、歴史上初の試みである。
「人間の食事には作法というものがあるんです! 音を立てて食べるなど言語道断!」
「はあ? 食事は生命活動だぞ。力強く食らうことこそ食材への敬意だ! 魔族の食事作法ではな!」
ヴァルゼンは両者の間で、きょろきょろと視線を行き来させた。
(どっちの言い分もわかるけど、僕にどうしろと……)
「あ、あの——」
二人が同時にこちらを向いた。ヴァルゼンは反射的に一歩後ずさった。
「ヴァルゼン様、魔王としてこの者に正しい作法を教えてやってください!」
「魔王様、こいつに魔族の誇りを説いてやってください!」
二人の視線が突き刺さる。ヴァルゼンの喉がひくりと鳴った。
(助けて。両方から詰められてる。どっちの味方をしても片方を敵に回す。完全に詰んだ)
「えっと、その——」
必死に言葉を探した。何か当たり障りのないことを。角が立たないことを。
「……僕も、食事の作法ってよくわからないんですよね」
沈黙が落ちた。
ヴァルゼンは慌てて付け加えた。
「い、いえ、本当に。魔王なのに恥ずかしいんですけど、どっちの作法が正しいとか、僕には判断できなくて——だから、その、お互いに教え合ったりしたら、楽しいんじゃないかなって……」
また沈黙。
(終わった。完全に的外れなこと言った。魔王がマナーも知らないとか、威厳の欠片もない——)
料理人が噴き出した。
「は——っはっは! 魔王様がマナーをご存じない! こりゃ傑作だ!」
魔族の担当官も、低い声で笑い始めた。
「ふ……ふはは。確かに、魔王様がそう仰るなら、我々が喧嘩しているのは馬鹿馬鹿しいな」
二人は顔を見合わせ、気まずそうに——しかし確かに、笑い合った。
その様子を遠巻きに見ていたフェリクスが、手帳を開いた。
「自らの権威を犠牲にすることで場の緊張を解く。相手に『自分の方が上だ』と思わせることで矛先を逸らし、同時に共感を生む——極めて高度な仲裁技術だ」
隣でミラベルが頷いた。
「本当に。ヴァルゼン様は、いつもご自身を低くすることで周囲を高めてくださるんですね」
(何の話をしてるんだこの人たちは。僕は本当にマナーがわからなかっただけなんだけど)
合同食堂の問題は、その日を境に劇的に改善した。「魔王様もマナーがわからないらしい」という噂が広まった結果、人間も魔族も肩の力が抜けたのだ。互いの食文化を面白がって試す者が増え、食堂は思いがけず交流の場として機能し始めた。
午後になると、別の問題が持ち込まれた。
魔族の子供たちが人間の子供たちと喧嘩をしたという報告だった。
「原因は?」
グリゼルダが端的に訊いた。
「えーと、人間の子供が『角が変』って言ったのが始まりで——」
報告に来た兵士が、ちらりとヴァルゼンの額を見た。前髪に隠れた小さな角。
(見るな。僕の角の話はしてないだろう)
「ヴァルゼン様」
ザガンが静かに進み出た。
「ここは魔王として一言。子供たちに範を示していただけますか」
(範って何。僕が子供に何を示せるんだ。角が小さいのはコンプレックスなんだからやめてくれ)
結局、ヴァルゼンは人間と魔族の子供たちの前に立たされた。十数人の子供の視線が一斉に向けられる。
「あ、あの——」
声が裏返った。子供たちがくすくす笑った。
(笑われた。魔王が子供に笑われてる。もう帰りたい)
「えっと、その、角のことなんだけど——僕の角、見える?」
前髪をかき上げた。小指の先ほどの、みすぼらしい角が露わになる。
魔族の子供が目を丸くした。
「ちっちゃ!」
「うん。ちっちゃいんだ。僕、魔族なのに角が小さくて、ずっと恥ずかしかった」
人間の子供が首を傾げた。
「でも魔王様なんでしょ? 角が小さくても?」
「……うん。角が小さくても、魔王になっちゃったんだ。見た目とか、種族とか、そういうのって——あんまり関係ないのかもしれない」
自分で言っていて、なんだか胸が苦しくなった。信じてもいないことを偉そうに言っている罪悪感だ。
しかし子供たちの目は輝いていた。
「すげえ! 魔王様の角ちっちゃいのに魔王!」
「かっこいい!」
(かっこよくない。全然かっこよくない。これは教育的なことを言ったんじゃなくて、単に自虐しただけだ)
グリゼルダが腕を組んで頷いた。
「自らの弱みを晒すことで、弱者に勇気を与える。王の器だな」
(違うんだ。本当に違うんだ)
夕暮れ時、ヴァルゼンは宿の窓辺に腰を下ろした。忙しい一日だった。
人間と魔族が同じ街で暮らし始めた新しい日常。問題は山積みだが、少しずつ——本当に少しずつだが——歩み寄りの気配がある。
(平和って、こういうことなのかな)
ぼんやりとそう思った瞬間——
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
(……え?)
あの感覚だ。以前マロスカ村の近くで感じた、あの不快な違和感。魔力の流れの中に混じる、冷たい淀み。
だが今回は、比較にならないほど——大きい。
(なんだ、これ。遠い。すごく遠い場所で——でも、大きい。大きすぎる)
窓の外の空は、まだ赤い夕焼けに染まっていた。何も変わらない、穏やかな景色。
しかしヴァルゼンの肌は、世界の遠い場所で何かが軋み始めていることを、確かに感じ取っていた。




