二つの世界の王
二つの世界の王
共存政策の初日は、想像以上に地味に始まった。
会場は王城の大会議室。長い楕円形のテーブルの片側に人間の代表が、反対側に魔族の代表が座っている。
そして中央の席には——当然のように、ヴァルゼンが座らされていた。
「ここ……僕の席なんですか?」
「無論だ」
エルヴィンが当たり前のように答えた。
「お前は人間と魔族の架け橋だろう? 橋は真ん中にあるもんだ」
——橋って。橋って言われても。
中央の席は居心地が最悪だった。
右を向けば人間の代表たちと目が合う。左を向けば魔族の代表たちと目が合う。正面を向けば——向かいに席がないので、壁と目が合う。壁だけが心の友だった。
会議が始まると、ヴァルゼンの居心地の悪さはさらに加速した。
議題は「共存政策の具体的な施策」。交易路の開設、魔族居住区の設置、合同治安部隊の編成——実務的な話が次々と飛び交う。
人間側が提案すると魔族側が渋い顔をし、魔族側が要求すると人間側が難色を示す。まだ初日だというのに、空気は早くも険しくなりかけていた。
ヴァルゼンは右を見た。人間の代表が額に青筋を浮かべている。
左を見た。魔族の代表が腕を組んで唸っている。
右。左。右。左。
首が忙しい。落ち着かない。そわそわする。
「……魔王殿は、双方の発言を漏らさず拾っておいでだ」
フェリクスが感心したように呟いた。
「右、左、と交互に視線を送ることで、発言者に『聞いている』と示している。さりげない配慮だが、会議の場では極めて有効だ」
——ただ落ち着かなくてきょろきょろしてるだけなんだよ!
議論が膠着した。
交易路の通行税をめぐって、人間側と魔族側の主張が噛み合わない。声が徐々に大きくなり、テーブルを叩く音が響く。
ヴァルゼンは板挟みの中央で、ますます小さくなった。
両側から飛び交う怒声が怖い。このまま放っておいたら喧嘩になる。喧嘩になったら——中央に座っている自分が一番危ない。
恐怖が、口を動かした。
「あ、あの……!」
震える声が、思いのほか広間に響いた。全員の視線が中央に集まる。
「その……通行税のことなんですけど……最初は、お互いにちょっとずつ出し合って、どっちの負担が重いか、実際にやってみてから決めるっていうのは……だめ、ですか……?」
声は尻すぼみだった。最後はほとんど消え入りそうだった。
だが内容は、フェリクスの目を見開かせた。
「……試行期間を設けて、実データに基づいて調整する。実に合理的だ」
フェリクスがモノクルの奥で目を輝かせた。
「しかも『お互いにちょっとずつ』という表現で、どちらの面子も潰さない。魔王殿、あなたの交渉術は——」
「べ、別に交渉とかじゃなくて……」
ヴァルゼンの弁明は、両側の代表たちの頷きにかき消された。
「ふむ。試行期間か。悪くない」
「まあ……やってみてから調整するというのなら、受け入れられんこともない」
膠着が、嘘のように解けた。
その後も、議論が行き詰まるたびにヴァルゼンの「素朴な一言」が場を動かした。
魔族居住区の位置をめぐる対立には、「人間の町と魔族の町の間がいいんじゃないですか……どっちにも歩いて行けるし……」と言い、合同治安部隊の指揮権問題には、「えっと、日替わりとかだめですか……?」と提案した。
どれも素朴で、どれも幼稚で、どれも——驚くほど効果的だった。
複雑に絡み合った利害の糸を、子供のような単純さで解きほぐしていく。
「恐ろしい方だ」
会議の合間、フェリクスがザガンに耳打ちした。
「難しい問題を、あえて簡単な言葉に落とし込む。相手の知性を試すのではなく、相手の善意に訴えかけている。高度な交渉技術だ」
ザガンは薄く笑った。
「さすがは陛下、ということですな」
尾の先端が、小さく揺れていた。
会議が終わったのは日暮れ前だった。
共存政策の初日としては、驚くべき量の施策が決まった。人間の代表も魔族の代表も、互いに頷きながら退室していく。
ヴァルゼンは中央の席でぐったりしていた。
「お疲れ様です、ヴァルゼン様……」
ミラベルが治癒魔法をかけようとして、ヴァルゼンが首を振った。
「大丈夫……体は傷ついてないから……心は満身創痍だけど……」
「ヴァルゼン」
エルヴィンが笑いながら近づいてきた。
「今日のお前、すごかったぞ。人間と魔族のど真ん中で、両方の話を聞いて、両方を動かした。お前はまさに——二つの世界の王だ」
二つの世界の王。
ヴァルゼンはその言葉を、疲労の霞がかかった頭で聞いた。
王なんかじゃない。ただ怖くて、ただ落ち着かなくて、ただ喧嘩が嫌で、思ったことを口にしただけだ。
だが——
ふと、窓の外を見た。
王城の中庭で、人間の兵士と魔族の衛兵が並んで歩いているのが見えた。ぎこちなく、距離を取りながら、それでも同じ方向に向かって歩いている。
その光景が、なぜかじんわりと胸に沁みた。
「……一緒に暮らしていけたらいいな」
昨日の自分の言葉が、ふと蘇った。
あれは、声が裏返った恥ずかしい失敗だった。
でも——
思ったことは、嘘じゃなかった。
「陛下」
ザガンが横に立っていた。
「明日の会議の準備資料を、今夜中にお届けします。お目通しを」
「う……また、あの難しい書類……?」
「ご心配なく。今回は私が要約をつけております」
ザガンがわずかに口元を緩めた。
「陛下のお言葉が必要なのは、書類の中身ではありません。書類の先にある、人の心です」
ヴァルゼンは首を傾げた。
よくわからなかった。
でも明日もまた、あの中央の席に座るのだろう。右を見て、左を見て、きょろきょろして、怖くて、落ち着かなくて——
それでも、ほんの少しだけ、今日よりはましになるような気がした。
ほんの少しだけ。




