先代にはなかったもの
先代にはなかったもの
条約調印から三日が経った。
ヴァルゼンの右手からインクはようやく薄れたが、彼の立場はますます色濃くなっていた。
人間と魔族の共存政策——その始動にあたり、両種族の代表が一堂に会する場が設けられた。そして当然のように、ヴァルゼンはその場の中央に立たされている。
「では、魔王ヴァルゼン殿より、開会のご挨拶を」
宰相の言葉に、広間の全員が姿勢を正した。
——挨拶? 聞いてない。聞いてないぞ。
ヴァルゼンの視線が泳いだ。ザガンを探したが、今日の彼は意図的に壁際に下がっていた。「陛下ご自身のお言葉が必要な場面です」と、朝の時点で釘を刺されている。
裏切り者。
いや、裏切り者は言い過ぎだ。でも少しくらい助けてくれたっていいじゃないか。
数百の視線がヴァルゼンに注がれている。人間の代表たちは期待と好奇心を隠さず、魔族の代表たちは誇りと緊張を滲ませている。
口を開いた。
「えー……その……」
声が震えた。
ヴァルゼンは自分の震えを必死に抑えようとしたが、体が言うことを聞かない。膝が笑い、指先が冷たい。
「今日から……人間と魔族が、一緒に……」
一緒に何だ。一緒に何をするんだ。頭が真っ白だ。
だから——考えるのをやめて、思ったことをそのまま言った。
「……一緒に、暮らしていけたらいいなって、思います」
声は裏返っていた。
顔が熱い。穴があったら入りたい。いや、穴を掘ってでも入りたい。
沈黙が、広間を支配した。
最初に動いたのは、ミラベルだった。
ぽろり、と涙がこぼれた。両手で口を押さえ、声を殺しながら泣いている。
次に動いたのは、意外にもグリゼルダだった。
銀髪の女騎士が、静かに拳を胸に当てた。騎士が最上の敬意を示す礼だ。
「……感情を抑えきれない真摯さ。あの方は本気だ」
グリゼルダの呟きが、隣にいたエルヴィンの耳に届いた。
広間の空気が変わった。
魔族の老代表が、ゆっくりと立ち上がった。白い髭を蓄えた老魔族は、ヴァルゼンをじっと見つめてから口を開いた。
「儂は先代魔王に五十年仕えた」
その一言で、空気がさらに張り詰めた。
「先代は偉大だった。力は圧倒的で、知略は深く、魔族を束ねる威厳があった」
老代表の目が、遠い過去を見ていた。
「だが——先代は、こういう場に立つことはなかった」
視線がヴァルゼンに戻った。
「人間と同じ部屋で、人間の目を見て、『一緒に暮らしたい』と言うことは、決してなかった」
広間がざわめいた。
老代表は続けた。
「先代は孤独な戦士だった。強大で、孤高で、誰よりも強かった。だからこそ、誰にも手を伸ばさなかった」
老魔族の声が、わずかに震えた。
「この方は違う。弱さを見せることを恐れず、手を伸ばす。先代にはなかったものを、この魔王は持っている」
——弱さを見せることを恐れず?
ヴァルゼンは目を瞬かせた。
違う。弱さを見せているのではない。弱さが勝手に溢れ出ているだけだ。声は裏返り、膝は震え、顔は真っ赤で——それのどこが「恐れず」なのだ。
だが広間の空気は、もう訂正を受け付けない方向に流れていた。
人間側の代表が立ち上がり、拍手を始めた。一人、二人、そして全員が。魔族の代表たちも、最初はぎこちなく、やがて力強く手を叩いた。
拍手の波が、広間を満たしていく。
エルヴィンが隣に来て、ヴァルゼンの肩に手を置いた。
「お前は今、先代魔王を超えたぞ」
——超えてない。超えてないから。声が裏返っただけだから。
フェリクスがモノクルを拭きながら、小さく呟いた。
「先代魔王は力で魔族を率いた。ヴァルゼン殿は心で両種族を繋ぐ。……興味深い対比だ」
手帳にまた何か書き込んでいる。
広間の隅で、ザガンが壁にもたれて目を閉じていた。
その唇が、かすかに動いた。
「……先代にはなかったもの、か」
四百七十年を生きた老臣の脳裏に、先代魔王の姿がよぎった。
圧倒的な力。揺るがぬ意志。孤高の背中。
そして——その背中に、誰も触れることができなかったという事実。
ザガンは目を開けた。
壇上では、ヴァルゼンが人間と魔族の代表に囲まれて、困り果てた顔をしていた。両方から握手を求められ、両方に頭を下げ、両方に「よろしくお願いします」とぺこぺこしている。
威厳の欠片もない。魔王としての風格など皆無だ。
だが——その周りには、人間も魔族も、等しく笑顔で集まっていた。
「さすがは陛下」
ザガンは、今日はその言葉に皮肉を混ぜなかった。
「先代が百年かけても築けなかったものを、あなたは一言で作ってしまわれた」
壇上のヴァルゼンは、そんなことは知らない。
彼が知っているのは、声が裏返ったことが死ぬほど恥ずかしいということと、右手のインクの跡がまだ微かに残っているということだけだった。




