↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最弱魔王なのに勇者パーティに『史上最凶の魔王』と誤解されています〜怖くて訂正できないまま世界を救うことになりました〜  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
163/340

インクの血判

インクの血判


 調印式の直後、ヴァルゼンは自分の右手を見下ろしていた。

 ——インクが、ついている。

 署名の際にペンから漏れたインクが、親指と人差し指の間にべったりと残っていた。深い紫色のインクは、乾きかけて皮膚に張りついている。

 拭こうとして、ローブの裾を探った。だが正装のローブには、都合のいい場所にポケットがない。布で拭けば黒い染みがつく。かといってこのまま人前で——

「ヴァルゼン!」

 エルヴィンの声が広間に響いた。

「祝杯だ! こっちに来い!」

 反射的に手を上げてしまった。

 インクまみれの右手が、衆目の前に晒された。


 一瞬の沈黙。


「おお……!」

 最初に反応したのはエルヴィンだった。

 彼は大股でヴァルゼンに歩み寄り、その右手をがっしと掴んで掲げた。

「見ろ、みんな! 血判の代わりだ! 魔王の流儀ってやつだな!」

 ——血判? いや、ただのインクなんだけど!?


 広間がどよめいた。

 人間側の貴族たちが目を見開き、魔族側の代表たちが感心したように頷いている。

「なるほど……署名だけでなく、己の手を汚すことで覚悟を示したのか」

 将軍が腕を組んで唸った。

「魔族の風習か?」

 ザガンがすかさず口を開いた。

「……古い魔族の儀礼に、契約の際に手を染める習わしがございます」

 ——ないよそんなの! ザガン、今でっち上げたでしょ!?


 しかしザガンの言葉は、その場の全員を納得させるのに十分だった。なにしろ四百七十年を生きた元参謀の言葉だ。嘘か本当か、誰にも検証できない。

 ザガンの尾が、ローブの下でわずかに揺れた。


「すごい……ヴァルゼン様は魔族の伝統も大切にされるのですね……!」

 ミラベルが両手を胸の前で組み、目を輝かせていた。

 ヴァルゼンは全力で否定したかった。したかったのだが、エルヴィンに右手を掴まれたまま身動きが取れない。


「フム」

 フェリクスがモノクルの位置を直しながら近づいてきた。

「興味深い。条約書への署名は公的な契約。手のインクは私的な誓約。つまり魔王殿は、公私両面から条約への責任を表明したわけだ」

「いや、あの、違——」

「なるほど。二重の拘束力か」

 フェリクスは手帳を取り出し、何やら書き留め始めた。

 ——何をメモしてるの!? やめて!?


 事態はさらにエスカレートした。

 大神官が進み出て、ヴァルゼンのインクに染まった手を恭しく見つめた。

「魔王殿。この手の染料は、洗い落とさぬおつもりか」

「え、いや、洗いたいんですけど——」

「なんと」

 大神官が深く頷いた。

「契約の重みを身に刻む。これは……聖典にも通じる行いです」

 聖典。聖典に通じてしまった。インクを拭くタイミングを逃しただけなのに、宗教的な意味まで付与されてしまった。


 ヴァルゼンの内心は悲鳴を上げていた。


 気がつけば、広間のあちこちで模倣が始まっていた。

 人間の貴族が、条約の写しに署名した後で自らの手にインクをつけている。魔族の代表も、それに倣って手を染めた。

「新しい儀礼が生まれている……!」

 ミラベルが感動の涙を浮かべた。

「ヴァルゼン様が作った儀礼が、もう広まって……!」

 ——僕は何も作ってない!


 グリゼルダが静かにヴァルゼンの傍に立った。

「ヴァルゼン様。言葉ではなく行動で示す。それが最も雄弁な誓いだと、私は思います」

 その声には、武人特有の実感がこもっていた。

 ヴァルゼンは何も言い返せなかった。グリゼルダの真剣な目を見てしまうと、「ただのインクです」という真実が喉の奥に引っ込んでしまう。


 祝宴が進む中、ヴァルゼンはようやくエルヴィンの手から解放された。

 広間の隅に逃げ込むように移動し、壁にもたれて深いため息をつく。

 右手を見下ろした。紫色のインクは、もう乾いて簡単には落ちそうになかった。

「陛下」

 ザガンが、いつの間にか隣に立っていた。

「……ザガン。あの、『古い魔族の儀礼』って——」

「ええ。ございませんよ、そのようなものは」

 あっさり認めた。

 ヴァルゼンは脱力した。

「な、なんで嘘を……」

「嘘ではありません。『本日をもって存在するようになった』と申し上げているのです」

 ザガンの琥珀色の瞳が、静かに笑っていた。

「陛下が生み出した新しい伝統です。それを支えるのが、臣下の務めというもの」


 ヴァルゼンは右手を見つめた。

 紫色のインクが、皮膚の皺に沿ってこびりついている。

 洗い落としたい。心の底から洗い落としたい。

 だが——広間では今も、人間と魔族が互いの手を染めながら笑い合っている。


 それを見ていると、なぜか、インクを落とすのが少しだけ惜しいような気がした。

 ほんの少しだけ。


「……ザガン」

「はい、陛下」

「明日には落ちるよね、これ」

「おそらく三日ほどかかるかと」

「三日!?」

 ヴァルゼンの悲鳴が、祝宴の喧騒に呑まれて消えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。