インクの血判
インクの血判
調印式の直後、ヴァルゼンは自分の右手を見下ろしていた。
——インクが、ついている。
署名の際にペンから漏れたインクが、親指と人差し指の間にべったりと残っていた。深い紫色のインクは、乾きかけて皮膚に張りついている。
拭こうとして、ローブの裾を探った。だが正装のローブには、都合のいい場所にポケットがない。布で拭けば黒い染みがつく。かといってこのまま人前で——
「ヴァルゼン!」
エルヴィンの声が広間に響いた。
「祝杯だ! こっちに来い!」
反射的に手を上げてしまった。
インクまみれの右手が、衆目の前に晒された。
一瞬の沈黙。
「おお……!」
最初に反応したのはエルヴィンだった。
彼は大股でヴァルゼンに歩み寄り、その右手をがっしと掴んで掲げた。
「見ろ、みんな! 血判の代わりだ! 魔王の流儀ってやつだな!」
——血判? いや、ただのインクなんだけど!?
広間がどよめいた。
人間側の貴族たちが目を見開き、魔族側の代表たちが感心したように頷いている。
「なるほど……署名だけでなく、己の手を汚すことで覚悟を示したのか」
将軍が腕を組んで唸った。
「魔族の風習か?」
ザガンがすかさず口を開いた。
「……古い魔族の儀礼に、契約の際に手を染める習わしがございます」
——ないよそんなの! ザガン、今でっち上げたでしょ!?
しかしザガンの言葉は、その場の全員を納得させるのに十分だった。なにしろ四百七十年を生きた元参謀の言葉だ。嘘か本当か、誰にも検証できない。
ザガンの尾が、ローブの下でわずかに揺れた。
「すごい……ヴァルゼン様は魔族の伝統も大切にされるのですね……!」
ミラベルが両手を胸の前で組み、目を輝かせていた。
ヴァルゼンは全力で否定したかった。したかったのだが、エルヴィンに右手を掴まれたまま身動きが取れない。
「フム」
フェリクスがモノクルの位置を直しながら近づいてきた。
「興味深い。条約書への署名は公的な契約。手のインクは私的な誓約。つまり魔王殿は、公私両面から条約への責任を表明したわけだ」
「いや、あの、違——」
「なるほど。二重の拘束力か」
フェリクスは手帳を取り出し、何やら書き留め始めた。
——何をメモしてるの!? やめて!?
事態はさらにエスカレートした。
大神官が進み出て、ヴァルゼンのインクに染まった手を恭しく見つめた。
「魔王殿。この手の染料は、洗い落とさぬおつもりか」
「え、いや、洗いたいんですけど——」
「なんと」
大神官が深く頷いた。
「契約の重みを身に刻む。これは……聖典にも通じる行いです」
聖典。聖典に通じてしまった。インクを拭くタイミングを逃しただけなのに、宗教的な意味まで付与されてしまった。
ヴァルゼンの内心は悲鳴を上げていた。
気がつけば、広間のあちこちで模倣が始まっていた。
人間の貴族が、条約の写しに署名した後で自らの手にインクをつけている。魔族の代表も、それに倣って手を染めた。
「新しい儀礼が生まれている……!」
ミラベルが感動の涙を浮かべた。
「ヴァルゼン様が作った儀礼が、もう広まって……!」
——僕は何も作ってない!
グリゼルダが静かにヴァルゼンの傍に立った。
「ヴァルゼン様。言葉ではなく行動で示す。それが最も雄弁な誓いだと、私は思います」
その声には、武人特有の実感がこもっていた。
ヴァルゼンは何も言い返せなかった。グリゼルダの真剣な目を見てしまうと、「ただのインクです」という真実が喉の奥に引っ込んでしまう。
祝宴が進む中、ヴァルゼンはようやくエルヴィンの手から解放された。
広間の隅に逃げ込むように移動し、壁にもたれて深いため息をつく。
右手を見下ろした。紫色のインクは、もう乾いて簡単には落ちそうになかった。
「陛下」
ザガンが、いつの間にか隣に立っていた。
「……ザガン。あの、『古い魔族の儀礼』って——」
「ええ。ございませんよ、そのようなものは」
あっさり認めた。
ヴァルゼンは脱力した。
「な、なんで嘘を……」
「嘘ではありません。『本日をもって存在するようになった』と申し上げているのです」
ザガンの琥珀色の瞳が、静かに笑っていた。
「陛下が生み出した新しい伝統です。それを支えるのが、臣下の務めというもの」
ヴァルゼンは右手を見つめた。
紫色のインクが、皮膚の皺に沿ってこびりついている。
洗い落としたい。心の底から洗い落としたい。
だが——広間では今も、人間と魔族が互いの手を染めながら笑い合っている。
それを見ていると、なぜか、インクを落とすのが少しだけ惜しいような気がした。
ほんの少しだけ。
「……ザガン」
「はい、陛下」
「明日には落ちるよね、これ」
「おそらく三日ほどかかるかと」
「三日!?」
ヴァルゼンの悲鳴が、祝宴の喧騒に呑まれて消えた。




