条約に署名した日
条約に署名した日
調印式の朝、ヴァルゼンは鏡の前で三度目のため息をついた。
ザガンが用意した正装は、黒を基調とした魔王の礼服だった。銀の縁取りと、胸元に旧魔王家の紋章が刺繍されている。
立派だ。文句なく立派だ。
——問題は、中身がまったく立派じゃないことだ。
「陛下。お時間です」
ザガンの声に促されて廊下に出ると、エルヴィンが先に待っていた。白銀の勇者装束に身を包んだ金髪碧眼の青年は、ヴァルゼンの姿を見るなり目を輝かせた。
「おお、ヴァルゼン! 似合ってるじゃないか!」
「いや、あの、その……借り物なんですけど」
「魔王が謙遜するな! 今日は歴史に残る日だぞ!」
歴史に残る日。
その言葉の重みが、ヴァルゼンの胃を直接殴りつけた。
大広間は昨日とは一変していた。
赤い絨毯が敷かれ、国旗と魔族の旗が並んで掲げられている。両側には人間と魔族の要人がずらりと列席し、その奥には記録官と画家が控えていた。
——画家? なんで画家がいるの?
「歴史的瞬間を絵画に残すそうだ」
フェリクスが涼しい顔で教えてくれた。
「魔王殿、いい表情をお願いしますよ」
いい表情。いい表情って何だ。今のヴァルゼンの顔は、処刑台に上る囚人のそれに限りなく近い。
国王が壇上に立ち、格調高い声で宣言した。
「本日ここに、人類と魔族の新たな時代を拓く同盟魔王条約の調印を執り行う」
拍手が広間に響いた。
ヴァルゼンは導かれるまま壇上に上がった。目の前に広げられた条約書は、上質な羊皮紙に格式高い字体で記されていた。
昨日の草案を清書したものだ。
——相変わらず内容はさっぱりわからない。
「では、魔王ヴァルゼン殿。署名を」
羽ペンが差し出された。
ヴァルゼンはそれを受け取り——手が震えた。
緊張だ。純粋な、混じりけのない緊張。数百人の視線が自分に集中している。羊皮紙の上の署名欄が、やけに小さく見えた。
ペン先が紙に触れる。
インクが滲む。
——あ。
最初の一画が少しだけ太くなった。ヴァルゼンの額に汗が浮かぶ。次の一画も、緊張で力が入りすぎて線が乱れた。
だが不思議なことに、書き進めるうちにペンの動きは安定していった。一文字目はガタガタだったが、名前を書き終える頃にはどうにか形になっていた。
「……はい。書きました」
小さな声でそう告げると、広間に一瞬の静寂が落ちた。
国王が条約書を手に取り、署名を確認した。
そして——微笑んだ。
「見事な署名だ」
ヴァルゼンは目を疑った。見事? どこが?
だが国王の視線は、署名の最初の太い一画に向けられていた。
「最初の一筆に力を込め、徐々に筆圧を落とす。決意と冷静の両方が表れた書体だ」
——違います。最初の一画は手が震えてただけです!
続いて国王が署名し、条約書が完成した。
広間に割れんばかりの拍手が響く中、ヴァルゼンはぎこちなく頭を下げた。
壇上から降りたところで、ザガンが静かに寄り添った。
「おめでとうございます、陛下。歴史が動きました」
「ザガン……僕、ちゃんとできてた……?」
「ええ。堂々としておいででした」
堂々。自分のどこが堂々としていたのか、ヴァルゼンにはまったくわからなかった。全身から冷や汗が吹き出し、膝は微妙に笑っている。
しかし広間の空気は高揚に満ちていた。人間の貴族たちが魔族の代表と握手を交わし、あちこちで祝杯が上がっている。
エルヴィンがヴァルゼンの背中をばしんと叩いた。
「やったな、ヴァルゼン! 人間と魔族が手を結ぶ日が来るなんて、一年前には想像もできなかった!」
「は、はい……僕も想像できませんでした」
それは本心だった。何しろヴァルゼン自身が最も想像できない展開の渦中にいるのだから。
グリゼルダが腕を組んで壁際に立ちながら、小さく頷いた。
「ヴァルゼン様。あの方は戦場だけでなく、政の場でも強者だ」
「政の?」と隣のミラベルが首をかしげる。
「あの緊張の中、署名に一切の迷いがなかった。覚悟の座った人間にしかできない所作だ」
——迷いがなかったんじゃなくて、迷う余裕がなかっただけなのに。
ミラベルが目を潤ませた。
「ヴァルゼン様……人間と魔族の架け橋に、ご自身がなられたのですね。どれほどの重圧だったか、私には想像もつきません……っ」
「あ、いえ、そんな大げさな——」
「大げさなものですか!」
エルヴィンが拳を握る。
「お前は今日、歴史を変えたんだ!」
歴史を変えた。
条約の中身すら理解していない男が、歴史を変えた。
ヴァルゼンは広間の喧騒の中で、一人だけ遠い目をした。
ザガンが、主君のそんな顔を横目で見ながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……しかし、陛下。あなたが署名したという事実そのものが、歴史なのですよ」
その言葉は、ヴァルゼンの耳には届かなかった。
届いたのは、広間に響く祝杯の歓声と、自分の心臓がまだ早鐘のように打っている音だけだった。




