同盟魔王条約
同盟魔王条約
王城の大広間に、これまで見たことのない数の人間が集まっていた。
国王、宰相、将軍、大神官——この国の上層部がずらりと長卓の両側に並び、その全員の視線がヴァルゼンに注がれている。
いや、正確に言えば、ヴァルゼンの隣に立つザガンが用意した椅子にちょこんと座っているヴァルゼンに、だ。
——なんで僕がここにいるの?
心の中で三度目の絶叫を飲み込みながら、ヴァルゼンは引きつった笑みを顔に貼りつけた。
ことの発端は昨日の夕刻だった。フェリクスが「明日の会議に魔王殿の同席が必要です」とさらりと告げ、ヴァルゼンが「え、僕は留守番を——」と言いかけたところで、エルヴィンが肩を掴んで言ったのだ。
「お前なしで何が決まるんだ。行くぞ、ヴァルゼン!」
逃げ場は、なかった。
宰相が立ち上がり、分厚い書類の束をめくりながら説明を始めた。
「本日の議題は、魔族との新たな関係を定める『同盟魔王条約』の枠組み策定であります」
同盟魔王条約。
ヴァルゼンはその響きに背筋が凍った。条約の名前に「魔王」が入っている。つまり、この条約の中心にいるのは——
「——魔王ヴァルゼン殿。まずは草案に目を通していただきたい」
宰相が恭しく差し出した書類を、ヴァルゼンは受け取った。
受け取って、ぱらりとめくった。
——読めない。
正確には文字は読める。だが書かれている内容が難解すぎた。「相互不可侵原則に基づく領域主権の尊重」「魔力資源の共同管理に関する付帯条項」「紛争解決のための仲裁委員会の設置要件」——法律用語の洪水が、ヴァルゼンの脳を容赦なく押し流していく。
必死に目を動かした。一行読んで、わからない。次の行を読んで、もっとわからない。冷や汗が額を伝い始めた。
だが表面上は、ヴァルゼンの目は草案の上を滑らかに動いていた。なにしろ必死で理解しようとしているのだ。目は真剣そのものだった。ページをめくる手も、内容が頭に入らない焦りから自然と速くなった。
フェリクスがその様子を観察し、目を細めた。
「……一読で全体を把握した。法務の専門家でも半日はかかる分量を」
隣のエルヴィンが腕を組んで頷く。
「さすがヴァルゼンだ。俺なら表紙で寝る」
ヴァルゼンは草案を静かに卓上に置いた。実際のところ、何一つ理解できなかったからこそ、何を指摘していいかわからず黙っているだけだった。
だがその沈黙を、大広間の面々は異なる角度から受け止めた。
「……修正の要求がない、ということは」
宰相が慎重に言葉を選ぶ。
「草案の方向性については、概ね了承いただけると?」
ヴァルゼンは目を泳がせた。了承も何も、内容がわかっていない。だが「わかりません」と言えるわけがない。国王以下全員が注視する中で、「最凶の魔王」が「読めませんでした」と白状できるはずがない。
「……あ、はい。その、大筋は……問題ないかと」
絞り出した声は、緊張で少しだけ低くなっていた。
将軍が感心したように唸る。
「細部ではなく大局を見る。器が違う」
——大局も見えてないんだけど!?
ザガンが一歩前に出た。
「陛下。草案の細部については、私が確認いたします。陛下のお時間を事務作業に費やすのは惜しい」
ヴァルゼンは全力で頷いた。ザガン、ありがとう。本当にありがとう。今なら足を洗ってあげてもいい。いや、それは違うか。
ザガンの琥珀色の瞳がわずかに笑みを含んだ。尾の先端が、見えないところで小さく揺れた。
会議はそこから本格化した。
領土の境界線、交易の条件、魔族の人間社会での権利保障——議論は多岐にわたり、ヴァルゼンの頭上を高速で通過していった。
彼にできたのは、ザガンが「陛下、ここはこちらの案がよろしいかと」と耳打ちするたびに頷くことだけだった。
しかし、その頷きのタイミングが絶妙だった。
ザガンが促す前に、ヴァルゼンが自発的に頷く場面もあった。それはたまたま議論の中で「みんなが仲良くできそうな案」を直感的に選んでいたからなのだが——
「魔王殿は、こちらの提案を支持されるのですか」
大神官が驚いた顔をした。
「この案は人間側に若干不利です。にもかかわらず支持するということは……双方の譲歩を引き出すための布石でしょうか」
ヴァルゼンが「え」と声を漏らした瞬間、フェリクスが口を挟んだ。
「でしょうね。一方的に有利な条約は長続きしない。魔王殿はそれを理解している」
——してないよ!? ただ、両方が損しない案がいいなって思っただけなのに!
会議は日が暮れるまで続いた。
最終的にまとまった条約の骨子は、後世の歴史家が「奇跡的にバランスの取れた文書」と評することになる。
もちろんヴァルゼンは知らない。
彼が知っているのは、今日一日で寿命が三年は縮んだということだけだった。
「陛下。本日はお疲れ様でした」
会議室を出たところで、ザガンが静かに声をかけた。
「明日は調印式です。署名の練習をされますか」
「しょ、署名……?」
「はい。条約書に、陛下のお名前を」
ヴァルゼンの顔色が、また一段階白くなった。




