王冠の重さ
王冠の重さ
戴冠の儀の日が来た。
ヴァルゼンは控え室で、マントに三度絡まり、留め金を二度落とし、靴の左右を間違えるという完璧なスタートを切っていた。
「陛下、深呼吸を」
ザガンが落ち着いた声で言った。
「すー……はー……すー……はー……」
「呼吸が速すぎます。もう少しゆっくり」
「無理。無理です。心臓が口から出そう」
(今日のスケジュールを確認しよう。まず広間に入場する。長老の前に立つ。誓いの言葉を述べる。王冠を受ける。以上。四工程。たった四つだ。大丈夫。いける。いけるはず——いけない。絶対いけない)
控え室の扉が開き、エルヴィンが顔を出した。
「準備はいいか、ヴァルゼン!」
「よくない」
「上出来だ! 行くぞ!」
(よくないって言ったのに!)
広間には、魔族の長老五人を中心に、帰順した魔族の代表たち、穏健派の長たち、そして勇者パーティの面々が並んでいた。ベリオスも最前列にいる。腕を組み、表情は読めない。
ヴァルゼンが入場すると、全員が一斉に膝を折った。
(うわ。やめて。その光景が一番怖い)
足が震えた。マントの裾を踏みそうになった。でも——練習した。衣装合わせの後、三日間ずっとマントをつけて歩く練習をしたのだ。ミラベルに応援され、グリゼルダに指導され、ザガンに見守られながら。
なんとか、中央の壇上まで辿り着いた。
中央の長老が立ち上がった。
「魔王ヴァルゼン。長老会はここに、汝を魔族の現魔王として承認する」
形式的な宣言だった。審査は昨日終わっている。今日は儀式——儀礼だけだ。
(儀礼だけ。儀礼だけだ。何も怖くない。何も——)
「誓いの言葉を」
(来た)
ザガンが事前に教えてくれた誓いの言葉。一晩かけて暗記した。短い文章だ。三行だけ。大丈夫。覚えている。
「わ、我は——」
声が裏返った。
(あああ最初の一文字で裏返った)
広間がわずかにざわついた。しかしヴァルゼンは止まらなかった。止まったらもう動けなくなると本能が告げていた。
「我は——魔族の王として、民を守り、種族の誇りを繋ぎ、平和を——あれ、平和を求め? 平和を築き?」
長老が小声で「築き」と促した。
「平和を築き——次の時代へと、歩みを進めることを誓います」
言い切った。
噛んだし、詰まったし、声は裏返ったし、途中で忘れたけど——言い切った。
長老が頷いた。
「——承認する」
助手の魔族が、台座の上に置かれた王冠を持ってきた。
黒銀の王冠だった。先代魔王が戴冠した際に使用されたものの複製で、魔族の紋章が刻まれている。重厚で、荘厳で——見るからに重そうだった。
(あの王冠、すごく重そうなんだけど。先代の体格に合わせたサイズだったら僕の頭に収まらないのでは?)
長老が王冠を両手で掲げた。
「ヴァルゼン。この王冠を受けよ。王冠の重さは、民の命の重さである」
王冠がヴァルゼンの頭に載せられた。
——重い。
想像以上に重かった。首が前に傾いだ。両足に力を込めて踏ん張ったが、体が前によろけた。
(重い重い重い! これ金属の塊じゃないか! 首がもげる!)
ヴァルゼンの体が、前方に一歩よろめいた。
広間が息を呑んだ。
しかし——ヴァルゼンは倒れなかった。よろめきながらも踏みとどまり、両足で王冠の重さを支えた。
その姿を、長老たちは食い入るように見つめていた。
「……王冠の重みを——全身で受け止めておられる」
ささやきが広がった。
「あの重さは王の責任の重さ。それを正面から受け止めて、なお立ち続けるとは——」
(違う。純粋に物理的に重いだけだ。比喩じゃなくて。金属が。重い)
最前列のベリオスが——無言で、拳を胸に当てた。
魔族の最高の敬礼。
それを合図に、広間の全員が一斉に拳を胸に当てた。
魔族の戴冠の礼。三百年ぶりの光景だった。
ヴァルゼンは王冠の重さに耐えながら、目の前の光景を見た。
魔族たちが——自分に敬礼している。穏健派も、元強硬派も。長老も、若者も。全員が。
(……重い。王冠も重いけど——この人たちの期待も、重い)
でも——不思議と、嫌ではなかった。
怖かった。でも嫌じゃなかった。
「あ、あの——頭が下がっちゃうんですけど、誰か支えて——」
ミラベルが駆け寄った。エルヴィンが笑った。グリゼルダが「姿勢を正せ」と言った。フェリクスが手帳に書き込んだ。
ザガンは三歩後ろで、静かに微笑んでいた。
「——おめでとうございます、陛下」
その言葉は、四百年を生きた老臣の、偽りない祝辞だった。
最弱の魔王は——正式に、魔族の王となった。
王冠は重かった。でも、一人で支える必要はなかった。




