子供が足にしがみついていた。
子供が足にしがみついていた。
帰順者の受け入れから三日目。ヴァルゼンは収容所の視察に来ていた——来させられていた、が正確だ。ザガンが「陛下の御姿を見せることが、帰順者の安定に最も効果的です」と言い張ったのだ。
(視察って何をすればいいのかわからないまま来てしまった。えらい人がうろうろ歩いて頷いてればいいの? それで合ってる?)
収容所の実態は、仮設の居住区だった。帰順した魔族たちが家族ごとに割り振られた天幕の中で、新しい生活を始めようとしている。
子供たちの声が聞こえた。
魔族の子供は角が小さく、人間の子供とほとんど見分けがつかない。ただし走る速度は人間の三倍くらいある。
それが——なぜかヴァルゼンに向かって全力疾走してきた。
「まおうさまー!」
(え、ちょっと待って。なんで僕に向かって——速い速い速い!)
逃げる間もなかった。膝の高さの衝撃がヴァルゼンの足を直撃し、彼は見事によろけた。
「わ——っ!」
小さな腕が、ヴァルゼンの足に巻きついている。角が生えかけの——五歳くらいの魔族の女の子だった。
「まおうさま、おとうさんをゆるしてくれてありがとう!」
(お父さん。ああ、帰順者の子供か——って、その笑顔が眩しいんだけど。対処できないんだけど)
「あ、あの、どういたしまして……?」
子供が見上げた。大きな金色の目が、きらきら光っている。
「まおうさま、つのちっちゃいね!」
(ストレートに来た。子供の残酷な正直さ来た)
「う、うん……まあ、そうなんだけど……」
「あたしとおなじくらい! おそろいだね!」
女の子が自分の額を指さした。確かに、産毛のような角が二つ、ちょこんと生えている。ヴァルゼンの角とほぼ同じ大きさだった。
(魔王と五歳児の角が同じ大きさ。それを指摘されて反論できない魔王。僕です)
「ねえねえ、だっこ!」
「え——」
「だっこー!」
両手を広げて要求される。ヴァルゼンは周囲を見回した。助けを求めたかった。だが、エルヴィンは少し離れた場所で帰順者たちと話し込んでいるし、フェリクスは手帳に何かを書いている。グリゼルダは——こちらを見て、微かに口元を緩めていた。
(グリゼルダさんが笑ってる。珍しいけど今は助けてほしかった)
仕方なく、ヴァルゼンは女の子を抱き上げた。
「わー! たかーい!」
(高くない。僕の身長百六十五センチだから全然高くない。でもこの子にとっては高いのか)
子供の歓声を聞いて、他の子供たちも集まってきた。気づけば五人、六人——数えきれない魔族の子供がヴァルゼンの周りに群がっている。
「まおうさま、あそぼう!」
「まおうさま、おれのつのさわって!」
「まおうさま、つよい?」
(最後の質問には答えられない。答えたら全部終わる)
「あ、あはは……強いかは、その、置いておいて——」
ヴァルゼンは困っていた。心の底から困っていた。子供は嫌いではないが、こんなに一度に集まられると対処法がわからない。
笑うしかなかった。
困り果てた笑みが、引きつった愛想笑いが、ヴァルゼンの顔に浮かんだ。
その光景を——ベリオスは見ていた。
元強硬派の将軍。先代魔王の直属の近衛隊長。腕に刻まれた傷は百を超え、魔族の中でも屈指の武人と称された男。
帰順後、ベリオスは収容所の隅に一人で座っていることが多かった。他の帰順者たちがヴァルゼンに恭順の意を示す中、彼だけは距離を置いていた。
従いはする。だが、認めたわけではない。
そういう態度だった。
ベリオスの目が、子供たちに囲まれるヴァルゼンを捉えた。
先代魔王を思い出す。あの方は——強かった。圧倒的に。部下を率いるのは恐怖と威厳だった。子供が近づくことなど、あり得なかった。子供どころか、側近ですら一定の距離を保っていた。
それが魔王だとベリオスは思っていた。
だが目の前の光景は——何だ。
魔王が子供に角の大きさを比べられて困っている。魔王が抱っこをせがまれてよろけている。魔王が七人の子供に囲まれて、途方に暮れた笑みを浮かべている。
「……何だ、これは」
ベリオスは呟いた。声は誰にも聞こえなかった。
ザガンの声が聞こえた。
「ベリオス殿。陛下のお姿を、よくご覧ください」
いつの間にか、老参謀が隣に立っていた。
「子供は本能で人の本質を見抜きます。恐ろしい者には近づかない。危険な者からは逃げる。——あの子たちが、全力で駆け寄っていったのですよ。あの方のもとに」
「……それが何だと言う」
「先代にはなかったものが、そこにある。ただそれだけのことです」
ザガンは静かに離れていった。
ベリオスは再び、ヴァルゼンを見た。
女の子がヴァルゼンの髪を引っ張っている。ヴァルゼンは「痛い痛い」と言いながらも怒らず、困ったように笑っている。
(この魔王は——何かが違う)
言語化できなかった。
先代は偉大だった。強さにおいて、カリスマにおいて、戦略において。魔王軍を束ねる絶対的な存在だった。
だが——あの方に、こんな笑い方ができただろうか。
ベリオスは目を逸らした。
認めるわけにはいかない。まだ。
だが——目を逸らした先の地面に、子供の足跡がたくさんあった。全部、ヴァルゼンのいる方角を向いていた。
ベリオスは無言で、拳を握りしめた。




