お前はあの理想そのものだ
お前はあの理想そのものだ
祝宴の翌朝。いや、正確には翌昼だった。二日酔いで昼まで寝ていたヴァルゼンが、ようやく食堂に辿り着いた頃、そこにはエルヴィンだけがいた。
「おう、起きたか」
エルヴィンが水の入ったコップを差し出した。いつもの太陽のような笑みではなく、どこか穏やかな——それでいて真剣な表情だった。
「あ、ありがとう……頭が割れそう……」
「初めての酒でよくあそこまで飲んだな。素質があるぞ」
「素質いらない……二度と飲まない……」
ヴァルゼンは水を一口飲み、テーブルに突っ伏した。胃がまだぐらぐらする。
エルヴィンが対面に座った。椅子がぎしりと鳴る。この勇者の体重は、椅子にとって常に試練だった。
「なあ、ヴァルゼン」
「うん……?」
「お前、覚えてるか? 俺が昔言ったこと」
ヴァルゼンは顔を上げた。二日酔いの霞んだ目で、エルヴィンの顔を見た。
「昔って——いつの?」
「お前と初めて会った頃だ。パーティに入れた日の夜」
(ああ、あの夜か。あの、壮大な誤解の始まりの夜。エルヴィンが篝火の前で熱弁を振るっていたのは覚えてる。内容は——正直あんまり覚えてない。怖すぎてそれどころじゃなかったから)
「えっと……ごめん、あんまり——」
「だろうな」
エルヴィンが笑った。少し寂しそうで、少し嬉しそうな笑みだった。
「あの夜、俺はお前に言ったんだ。『理想の魔王ってのは、力で支配する者じゃない。力がなくても人がついてくる、そういう王だ』って」
ヴァルゼンは目を瞬いた。
(そんなこと言ってたっけ? えっ、本当に? あの夜は「お前こそ史上最凶の魔王だ!」って力説されたことしか覚えてないんだけど)
「俺がガキの頃からの夢だったんだよ」
エルヴィンの碧い目が、遠くを見ていた。
「勇者になりたかった。でもな、魔王を倒す勇者じゃなくて——魔王と肩を並べて戦える勇者になりたかったんだ」
「魔王と肩を並べて——?」
「おかしいだろ? 勇者って普通、魔王を倒すもんだ。でも俺は思ったんだ。もし魔王が力じゃなくて心で人を率いる王だったら。もし魔族と人間が一緒に戦える世界があったら。そしたら勇者は魔王を倒すんじゃなくて——魔王の隣に立てばいいんだって」
エルヴィンの声が——少しだけ、震えていた。
あのエルヴィンが。どんな敵の前でも一歩も退かなかった勇者が。
「ずっと夢物語だった。そんな魔王がいるわけないって、みんなに笑われた。勇者学校の教官にも、『甘い考えだ』って叱られた」
(勇者学校って制度があるの? それは初耳だけど今はそこじゃない)
「でもな」
エルヴィンがヴァルゼンを真っ直ぐに見た。
その碧い目に、涙が光っていた。
「お前と出会って——お前がベリオスの前に立って、震えながら『殺したくない』って言って、言葉だけで戦争を止めて——」
エルヴィンの声が詰まった。勇者が、言葉に詰まっている。
「ヴァルゼン。お前はあの理想そのものだ」
食堂の空気が止まった。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの上に柔らかな影を落としていた。
「力がなくても人がついてくる。魔族も人間も、お前の周りに集まってくる。お前は——俺がガキの頃から夢見ていた、理想の魔王そのものなんだ」
ヴァルゼンは固まっていた。
二日酔いの頭痛も、胃の不快感も、一瞬で吹き飛んでいた。
(え——)
(あの理想、そのもの——?)
(待って。待ってくれ。僕は理想の魔王なんかじゃない。誤解に次ぐ誤解で、周囲が勝手にすごい人だと思い込んでいるだけで。ベリオスさんの前で震えてたのも本当に怖かったからで、言葉だけで止めたんじゃなくて他に手段がなかっただけで——)
でも。
エルヴィンの涙は本物だった。
あの大きな体を震わせて、碧い目を潤ませて、心の底から言っている。夢が叶った、と。
「エルヴィン……」
ヴァルゼンの声が掠れた。
「そんなこと言ってたっけ……」
「覚えてないのか」
「ごめん……あの夜は怖すぎて、あんまり——」
エルヴィンが盛大に笑った。涙を拭いながら、腹を抱えて笑った。
「はっはっは! お前らしいな! 最高だ!」
(笑いごとじゃないんだけど)
笑い終えたエルヴィンが、ヴァルゼンの肩を叩いた。重い。いつもながら加減を知らない。
「だからな、ヴァルゼン。俺はお前の隣にいる。お前がどこに行こうと、何に立ち向かおうと——勇者は魔王の隣に立つ。それが俺の夢だ」
ヴァルゼンは——何も言えなかった。
訂正すべきだった。「僕は理想の魔王なんかじゃない」と。「全部誤解だ」と。「僕は最弱で、臆病で、今も毎日怖くてたまらなくて、バレたらどうしようってびくびくしてるだけの、ただの小心者だ」と。
言うべきだった。
でも——。
(言えないよ。こんな顔で言われたら)
エルヴィンの笑顔が眩しかった。少年がそのまま大人になったような、純粋な輝きだった。
訂正できなかった。
訂正する勇気が、なかった。
「……ありがとう、エルヴィン」
それだけ言うのが、精一杯だった。
エルヴィンが立ち上がった。
「さて! 感傷はここまでだ! 今日は帰順者の歓迎会の準備がある! 来い、ヴァルゼン!」
「え、まだ頭痛いんだけど——」
「二日酔いは動けば治る!」
「治らないと思う——」
引きずられるように食堂を出ながら、ヴァルゼンは思った。
(お前はあの理想そのものだ、か。エルヴィンの夢の中の魔王。力じゃなくて心で人を率いる王。——僕がそうだって言うの? 違うよ。僕はただ、怖がりで、弱くて、訂正できなくて従われてるだけなんだけど——)
廊下の窓から、午後の日差しが差し込んでいた。
(——でも、まあ。エルヴィンがそう信じてくれるなら。もう少しだけ、この居場所にいていいのかな)
最弱の魔王は、勇者に引っ張られながら、小さく笑った。




