膝を折る将軍
膝を折る将軍
ベリオスの膝が、地面についた。
その音は小さかった。鎧が砂利を擦る、それだけの音だった。
なのに——戦場全体が、凍りついた。
ヴァルゼンは目の前の光景が信じられなかった。魔族最強の将軍が、あの巨躯を折り畳むようにして片膝をつき、頭を垂れている。先ほどまで「力なき者に魔王は名乗れぬ」と吼えていた男が、今は沈黙の中で地面を見つめていた。
(え? えっ? なんで膝ついたの? 僕、何かした? 話しただけだよね?)
「……力では、勝てぬ」
ベリオスの声が低く響いた。
「お前の拳は弱い。お前の魔力は取るに足らぬ。剣を持てば腰が引け、戦場に立てば震える——そんな魔王に」
ベリオスが顔を上げた。
歴戦の猛将の目が、赤く滲んでいた。
「心を、折られた」
周囲の魔族兵たちがざわめいた。ベリオスが——あの不敗のベリオスが——膝を折った。その事実が、波紋のように広がっていく。
(心を折った? 僕が? 折ってない。折ろうとすらしてない。お前が怖がっていることがわかっただけだ。わかったから言っただけだ)
ヴァルゼンの足はまだ震えていた。ベリオスの威圧に晒され続けた恐怖が、体の芯に残っている。立っているのがやっとだった。
その震えを、最前列の魔族兵が見つめていた。
「……見ろ。ベリオス将軍を跪かせて、なお身体が震えている」
「あれは——」
「勝者の感情だ。将軍への敬意が、あの方の体を震わせているんだ」
(違う。怖いだけだ。純粋に、単純に、今もまだ怖いだけなんだ)
ベリオスが立ち上がった。
その動作は緩慢だった。膝に手をつき、重い体を起こし、ゆっくりと背筋を伸ばす。全身から、戦意が消えていた。代わりにあったのは——疲労と、奇妙な安堵。
「先代に仕えた。先代の理想を継ぐと誓った。先代の遺志を守ることだけが、俺の……」
ベリオスが言葉を切った。
「だが——お前は俺に問うた。『お前が守りたかったものは何だ』と」
ヴァルゼンは頷いた。頷くことしかできなかった。
「先代の名誉か。先代の遺志か。……魔族の未来か」
ベリオスの瞳が揺れた。
「答えは——未来だった。俺が本当に守りたかったのは、魔族の未来だった。先代への忠義を言い訳にして、俺は……自分が怖かっただけだ。魔族の居場所が、この世界からなくなることが」
(……うん。そうだと思った)
ヴァルゼンの目に涙が滲んだ。怖かったからだ。あまりにも怖くて、緊張の糸が切れかけていたからだ。
——ベリオスにはそう見えなかった。
「泣いて、おるのか」
ベリオスの声が掠れた。
「俺の痛みがわかるのか。敵であった俺の——不安が」
(泣いてるのは僕が怖かったからで、お前の痛みとかそういう高尚な話じゃないんだけど)
しかし涙は止まらなかった。恐怖と安堵が混ざり合って、どうにもならなかった。
ベリオスが一歩、近づいた。
ヴァルゼンの体が硬直した。
だがベリオスは——拳を胸に当てた。魔族の礼だった。臣下が主君に捧げる、最大の敬意。
「俺は降伏する」
その言葉が、戦場に響いた。
「だが——これは敗北ではない」
ベリオスの声に、静かな力が戻っていた。
「この魔王がどこまで行けるか。見届ける」
魔族兵たちが、次々と武器を降ろした。剣が、槍が、地面に落ちる音が連鎖した。将校たちも、もう制止しなかった。ベリオスが膝を折ったのだ。止める理由がなかった。
(終わった——のか? 終わったんだよな? 戦争にならずに済んだんだよな?)
ヴァルゼンの膝が笑い出した。立っていられなくなりそうだった。
その瞬間。
「——ッ!」
陣営の影から、変装したエルヴィンが飛び出しかけた。隣のグリゼルダが首根っこを掴んで引き戻す。
「離せグリゼルダ! 俺は今の光景を正面から見届けたい!」
「変装中だと言っているだろう。堪えろ」
フェリクスが変装用のフードの奥で、静かに涙を拭いていた。
「……見事だ。あの距離、あの圧力、あの絶望的な戦力差の中で——言葉だけで将軍を折った。歴史に刻まれるべき交渉だ」
(交渉って言うほど大層なことしてないんだけど。怖がっている人に『怖いんだね』って言っただけなんだけど)
ミラベルは変装の頭巾の下で、声を殺して泣いていた。
「ヴァルゼン様……あの方は、敵の痛みすら抱きしめてしまうんですね……っ」
(抱きしめてない。断じて抱きしめてない。あの巨体を抱きしめる勇気は僕にはない)
ザガンだけが、静かに目を細めていた。
「……さすがは陛下。弱さで勝つ——四百年仕えて、初めて見ましたよ、このような勝ち方は」
強硬派は、瓦解した。
剣も魔法も使わず、血を一滴も流さず。
最弱の魔王は、言葉だけで戦争を止めた。
——本人は、まだ膝が震えていた。




