力では勝てぬが
力では勝てぬが
ベリオスが水を飲み干した。
器を机に置く音が、静かな天幕に響いた。涙の跡が頬に残っていたが、ベリオスはそれを拭おうとしなかった。
「……情けない。齢六十を超えた将軍が、小僧の前で涙を流すとは」
「い、いえ、僕の前で泣いてくれて——いや、泣かせたんじゃなくて——えっと——」
(何を言っても地雷を踏みそうだ。黙ってた方がいい。絶対黙ってた方がいい)
ヴァルゼンは口を噤んだ。
ベリオスが深く息を吐いた。数十秒かけて、呼吸を整えている。その所作に、戦場で何十年も生き延びた者の自律が見えた。
「問いに答えよう」
ベリオスの声が、静かに戻った。
「俺が守りたかったものは——魔族の未来だ。先代への忠義を言い訳にして、俺はそこから目を逸らしていた。お前に——見抜かれるまで」
(見抜いてない。怖がってるのがわかっただけだ)
「だが、問題は変わらない」
ベリオスが立ち上がった。巨体が天幕の天井に迫る。
「魔族の未来を守るためには、力がいる。人間の社会で魔族が居場所を持つためには、それを保証する力が。お前に——それがあるのか」
ヴァルゼンは即答した。
「ないです」
ベリオスの眉が動いた。
「先代みたいに山を砕く力もないし、千人を相手にする力もないです。正直に言うと、僕の戦闘力はゴブリン以下で——」
(あっ。言っちゃった。ゴブリン以下って言っちゃった。今のは取り消せないのか? 取り消せないよな?)
天幕の入口付近で、変装した誰か——おそらくフェリクス——が小さく呻いた。
だがベリオスは、意外にも怒らなかった。
怒る代わりに、困惑していた。
「——自ら弱さを認めるのか。敵の前で」
「敵だと思ってないです。僕は最初から、ベリオスさんのことを敵だなんて——」
「それも含めてだ!」
ベリオスの声が、一瞬だけ荒くなった。
「お前は魔王だぞ。たとえ力がなくとも、虚勢でも、強く在るふりくらいはしろ。配下に弱みを見せる王が——」
「僕は弱いよ」
ベリオスの言葉が止まった。
ヴァルゼンの声は小さかった。震えてもいた。だが、不思議と芯があった。
「僕は弱い。ベリオスさんの言う通り、力もないし、威厳もない。魔王なんて名乗ったことすらない。みんなが勝手にそう呼ぶだけで、僕はいつもおろおろしてるだけで——」
(何を言ってるんだ。自分で墓穴を掘ってる。完全に掘ってる。止まれ、口。止まってくれ)
でも止まらなかった。
「でも——弱いから、誰も殺したくない。それだけなんです」
天幕の中の空気が変わった。
「強かったら、たぶん戦ってた。力があったら、力で解決しようとしてた。でも僕にはそれができないから——話すしかなかった。怖い思いをしながら、こうして座って、話を聞くことしかできなかった」
ベリオスは黙っていた。
「先代魔王は強かったから、戦って魔族を守った。でも僕は弱いから、戦わないで守る方法を探すしかない。それが——正しいのかどうかもわからないけど」
ヴァルゼンは顔を上げた。泣きそうな顔だった。怖くて、不安で、自信がなくて、それでも正面からベリオスを見ていた。
「僕は弱い。でも、弱いから誰も殺したくない。——それだけだ」
沈黙が降りた。
長い沈黙の中で、天幕の外から兵士たちのざわめきが聞こえた。武器を降ろした者たちの囁きが、風に乗って流れてくる。
ベリオスの表情が——崩れた。
怒りでも悲しみでもない。鉄壁の意志が、内側から砕けていく表情だった。
「弱いから殺したくない——か」
ベリオスの声が、枯れた。
「そんな魔王が、いるものか」
「います。ここに」
(うわ、今のちょっとかっこよかった? いや、ただの事実だけど)
ベリオスが——目を閉じた。
長い沈黙があった。
そして、ゆっくりと膝に手を置いた。
ヴァルゼンには、次に何が起こるのかわからなかった。
だがベリオスの体から、戦意が消えていくのだけは——はっきりと感じ取れた。




