お前が守りたかったものは何だ
お前が守りたかったものは何だ
翌朝、ヴァルゼンは再びベリオスの天幕を訪れた。
足が震えていた。昨日よりも、むしろひどく。
(もう一回行けって言われたから来たけど、これ罠じゃないよな? 一晩考えてやっぱり殺そうって結論に至った可能性は? いやでもベリオスさんは嘘をつくような人じゃない。たぶん。多分)
天幕に入ると、ベリオスはすでに立っていた。昨夜とは違い、表情に乱れはなかった。深紅の瞳は静かで、しかしどこか——疲れているようにも見えた。
「座れ」
同じ木椅子に腰を下ろす。昨日と同じ位置。同じぎしり。
だが空気は違った。昨日の威圧が、薄れていた。消えたわけではないが、ベリオスが意図的に抑えているのだと、ヴァルゼンの本能が告げていた。
「昨夜の続きだ」
ベリオスが切り出した。
「俺はお前を偽物だと断じた。それは撤回しない。力なき者が魔王を名乗る資格はない——俺はそう信じている」
(やっぱり撤回しないんだ。知ってた)
「だが」
ベリオスの声が、ほんの一瞬、揺れた。
「お前の言葉が——引っかかっている」
「僕の、言葉……?」
「昨夜、お前は言った。先代が戦ったのは、守りたいものがあったからだと」
ベリオスが腕を組んだ。
「俺は三十年以上を先代のもとで過ごした。あの方の拳の重さも、戦略の冴えも、すべて知っている。だがあの方が——何を守りたかったのか。それを、俺は考えたことがなかった」
(え。三十年一緒にいて考えたことなかったの?)
その素朴な驚きが顔に出たらしい。ベリオスがわずかに顔をしかめた。
「……戦い続けることが全てだった。先代はそういう方だった。そして俺も——戦うことしか知らなかった」
ベリオスの目が遠くなった。
「だから大戦が終わり、先代が逝き、魔族が敗れた後——俺には何も残らなかった。残ったのは怒りだけだ。人間への怒り。無力な自分への怒り。そして——先代のように戦えぬ魔族への苛立ち」
ヴァルゼンは黙って聞いていた。怖かった。でも昨日よりは、少しだけマシだった。ベリオスが怒りではなく、痛みを語っているのだとわかったから。
「だから挙兵した。魔族の誇りを取り戻すために。先代の遺志を継ぐために。——そう自分に言い聞かせて」
ベリオスの声が低くなった。
「だがお前は、俺に問うた」
ヴァルゼンは首を傾げた。
問うた?
「——いや、昨夜は直接は聞いていない。だがお前の言葉は、そう問うていた」
ベリオスがヴァルゼンを真っ直ぐに見据えた。
「お前が守りたかったものは何だ。先代魔王の名誉か。それとも——魔族の未来か」
ヴァルゼンの心臓が跳ねた。自分が投げかけた問いが、こうして言葉になって返ってきている。
「——ベリオスさん」
気がつけば、口が動いていた。
「僕にはわかりません。先代魔王のことも、魔族の歴史も、戦争のことも。僕は——本当に何もわかってない」
(何を言い出してるんだ。この場で「わかりません」は最悪の回答だ)
「でも」
声が震えた。でも、止められなかった。
「ベリオスさんが怖がっていることは——わかる、気がするんです」
ベリオスの目が見開かれた。
「怖い。魔族の居場所がなくなることが。先代が命をかけて守ったものが消えてしまうことが。それが——怖いんですよね」
沈黙が降りた。
長い、長い沈黙だった。
天幕の外で、風が吹いた。旗がはためく音が微かに聞こえた。
ベリオスの深紅の瞳に——光るものがあった。
「……貴様に、何がわかる」
絞り出すような声だった。怒りではなかった。涙を堪える声だった。
「わからないよ」
ヴァルゼンは正直に答えた。
「僕には先代の強さもないし、ベリオスさんの忠義もない。三十年の重みなんか、想像もできない」
(だから本当にわからないんだ。でも——)
「でも、お前が怖がっているのはわかる」
ベリオスの涙が、こぼれた。
音もなく。巨体に似つかわしくないほど静かに。
深紅の瞳から流れた雫が、革の鎧の上に落ちた。一滴。二滴。
「……俺は」
ベリオスの声が割れた。
「俺は——怖かったのだ。魔族の未来が。あの方がいなくなった後の世界で、魔族がどうなるのかが。だから戦うしかなかった。戦って、力で、居場所を勝ち取るしかないと——」
「うん」
ヴァルゼンは頷いた。ただ、頷いた。
「怖いですよね。居場所がなくなるの」
その言葉は——魔王の交渉術でも、心理戦でもなかった。
居場所を失い続けてきた一人の青年が、同じ恐怖を抱える老将に向けた、ただの共感だった。
ベリオスの涙が止まらなくなった。
先代魔王の死以来、この男が泣いたのは初めてだった。
天幕の外で、変装したパーティの面々が息を殺していた。
「……あの方は」
フェリクスの声が、微かに震えていた。
「ベリオスの不安の核を、たった二言で抉り出した。力や脅迫ではなく——共感で。これが、仲介者としてのヴァルゼンの本質か」
エルヴィンは何も言わなかった。ただ、目が赤かった。
ミラベルは声を殺して泣いていた。グリゼルダの拳は、震えていた。
そして天幕の中では——最弱の魔王が、泣いている将軍の前でおろおろしていた。
(泣いてる。泣いちゃった。どうしよう。ハンカチ持ってない。え、どうすればいいのこの状況)
ヴァルゼンにできたのは、昨日ベリオスにしてもらったことを返すだけだった。
机の上の水差しから、器に水を注いだ。
震える手で、差し出した。
「……水、どうぞ」
ベリオスは——長い沈黙の後、その器を受け取った。




