先代の亡霊
先代の亡霊
ベリオスは語り始めた。
夜が深まっていた。天幕の中に灯された一本の蝋燭が、揺らめく影を壁に落としている。ベリオスの巨体が投げる影は、天幕の半分を覆い尽くしていた。
「先代魔王ヴォルガス陛下は——完璧だった」
ベリオスの声は重く、静かで、そして何よりも痛みに満ちていた。
「力だけではない。知略があった。威厳があった。配下の忠誠を束ねる器があった。あの方が陣頭に立てば、魔族の軍勢は無敵だった」
(……すごい人だったんだな、先代は。ていうか今僕はこの話をどういう顔で聞けばいいの? 比較対象が完璧すぎて、居心地が悪いんだけど)
ヴァルゼンは木椅子の上で身じろぎした。ぎし、と椅子が鳴った。
「大戦の最終局面。人間の連合軍は六万。魔族軍は一万二千。だが先代は怯まなかった」
ベリオスの拳が膝の上で握り締められた。
「三日三晩の激戦だった。先代は先頭で戦い続けた。一人で千を屠ったと言われているが——俺は知っている。千どころではなかった。あの方は、自分の命を削りながら戦っていた」
(命を削って……。そんな戦い方、僕には想像もつかない。ていうか僕は腕立て伏せ十回で息が切れる男だ)
「だが——人間は卑怯だった」
ベリオスの声に、初めて怒気が滲んだ。
「毒矢だ。何百本もの毒矢を浴びせた。先代の体が崩れ落ちたとき——俺は、世界が終わったと思った」
沈黙が降りた。蝋燭の炎が揺れた。
ヴァルゼンは息を飲んだ。先代魔王の最期を、当の配下から聞かされている。これは歴史の授業ではない。この男にとっては、今もまだ続いている傷なのだ。
「あの方が逝き——魔族は散り散りになった。軍は解体され、領地は奪われ、同胞は人間の社会の片隅で息を潜めて暮らすようになった」
ベリオスが顔を上げた。深紅の目がヴァルゼンを射抜いた。
「そこに——お前が現れた」
(来た。この話の本題が来た)
「先代の血を引くと称する、角も碌に生えていない小僧が。力もなく、威厳もなく、配下を震え上がらせる覇気もない——偽物が」
その言葉は、棘ではなかった。嘆きだった。
「お前が魔王を名乗ったと聞いたとき、俺は怒ったのではない。——悲しかったのだ」
(悲しかった——)
ヴァルゼンの胸に、鋭い痛みが走った。偽物と呼ばれるのは覚悟していた。罵倒されることも。しかし「悲しかった」という言葉は、想定していなかった。
「先代が命を賭して守ろうとしたものが——こんな形で受け継がれるのかと。先代の犠牲は、この程度の器に行き着くのかと」
ベリオスの声が掠れた。
「先代の亡霊が、俺の中にいる。『魔族を頼む』と——あの方の声が、まだ聞こえるのだ」
天幕の中が、静寂に包まれた。
蝋燭の炎が小さくなった。蝋が尽きかけているのだ。
ヴァルゼンは——何も言えなかった。
反論はできない。ベリオスの言葉は全て正しい。力もない。威厳もない。覇気もない。先代魔王の後継者としては、あまりにもふさわしくない。
でも。
「……ベリオスさん」
声は小さかった。震えてもいた。
「先代魔王は——本当にすごい人だったんだと思います。僕じゃ足元にも及ばない。それは、本当に」
ベリオスの目が、かすかに揺れた。
「でも——先代が守りたかったのは、魔族の人たちなんですよね。戦場の話を聞いてて、そう思ったんです。すごく強かったから戦ったんじゃなくて、守りたいものがあったから戦ったんだって」
(何を言ってるんだ僕は。こんなこと言って合ってるのかもわからない。先代に会ったこともないのに)
ベリオスは無言だった。
だが——その拳が、ゆっくりと開かれた。
「……貶すことすらしないのか」と先ほど言ったベリオスの声が、ヴァルゼンの記憶に蘇った。
今もそうだ。ヴァルゼンは先代を否定しなかった。自分の正当性を主張もしなかった。ただ——先代の想いに、素直に敬意を表しただけだった。
「すごい人に仕えていたんですね」
その言葉を繰り返すように、ヴァルゼンは呟いた。
「先代魔王のために怒ってくれる人がいる。それだけで——先代は幸せだったんじゃないかな」
ベリオスの巨体が、微かに震えた。
蝋燭が消えた。天幕が闇に沈んだ。
闇の中で、ベリオスの声だけが聞こえた。
「——明日。もう一度だけ話す。今日は——もう帰れ」
声が、掠れていた。
(泣いてる——? この人が? 暗くて見えないけど……たぶん、泣いてる)
ヴァルゼンは立ち上がり、手探りで天幕の出口に向かった。
背後で、押し殺した呼吸が聞こえた。先代魔王に仕えた老将の、六年分の悲嘆が——暗闇の中で、静かに溢れていた。




