武器が降りる音
武器が降りる音
それは、金属が地面に触れる音だった。
最初の一つは、ほとんど聞き取れないほど小さかった。強硬派の右翼に陣取っていた若い鬼族の兵士が、手にしていた長槍を、そっと地面に横たえた。
それだけのことだった。
しかし——その音は、静寂の中では雷鳴に等しかった。
(え)
ヴァルゼンは呆然とその光景を見つめた。ついさっきまで殺気立っていた魔族の兵士が、武器を手放している。
二つ目の音が続いた。今度は剣だった。鉄の塊が乾いた地面に落ちる、硬い音。
三つ目。四つ目。五つ目。
武器が降りる音は、波紋のように広がっていった。
「な——何をしている! 武器を取れ! 目の前にいるのは敵だぞ!」
中堅将校の一人が叫んだ。声が裂けるような怒号だった。しかし、その怒声に応じる兵士は——ほとんどいなかった。
「……あの魔王は言ったんだ」
最初に槍を降ろした若い鬼族が、静かに口を開いた。
「殺したくない、って。俺たちのことを、殺したくないって」
「惑わされるな! あれは敵の——」
「敵?」
別の兵士が、疲れたような声で言った。牙の欠けた魔族の老兵だった。
「あの魔王は、たった一人でここに来たんだ。武器も持たずに。攻撃されても逃げなかった。あれが敵のやることか?」
(いや、逃げなかったんじゃなくて、足がすくんで動けなかっただけなんだけど)
ヴァルゼンの内心の叫びは、誰にも届かない。届かないまま、武器を降ろす音だけが、延々と続いていた。
中堅将校たちが慌てふためいている。罵声を浴びせ、命令を繰り返し、剣を抜いて威嚇する者もいた。しかし、そのたびに兵士たちの目が冷えていくのがわかった。
(あの、これ、どうすればいいんだ)
ヴァルゼンは途方に暮れていた。周囲の状況がまったく把握できない。自分が何をしたのかもよくわかっていない。ただ「殺したくない」と言っただけだ。それは嘘偽りない本心だった。だって本当に殺したくないのだ。というか、殺す力がそもそもないのだ。
だが、その「ただの本音」が——強硬派の軍勢を内側から崩壊させていた。
「……お前」
不意に、低い声が響いた。
兵士たちがざわめいた。武器を降ろした者も、まだ握っている者も、等しく背筋を伸ばした。
陣の奥から、巨大な影が歩み出てくる。
ベリオス。
強硬派の総大将にして、先代魔王に仕えた最強の将軍。
その体躯は、ヴァルゼンの倍はあった。筋骨隆々の肉体を黒鉄の鎧が覆い、背中には大戦時代の傷痕を示す裂け目がいくつも走っている。頭部には魔族の角が二本、雄牛のように太く、天を突くように伸びていた。目は深紅。そして、その目には——怒りとも悲しみともつかない、複雑な色が滲んでいた。
「お前が、ヴァルゼンか」
(死ぬ。今度こそ死ぬ。確実に死ぬ。この人に殴られたら、僕は原型をとどめない)
ヴァルゼンの膝が笑っていた。文字通り、がくがくと震えていた。逃げたい。今すぐ踵を返して全力で走りたい。しかし足が動かない。先ほどから、この足はまったく言うことを聞いてくれない。
「は、はい。ヴァルゼンです……」
蚊の鳴くような声が出た。
ベリオスが一歩近づいた。地面が揺れた気がした。
「我が兵を惑わし、武器を降ろさせたのは——お前の仕業か」
「し、仕業というか……あの、ただ、お話をしただけで……」
「話をした、だと?」
ベリオスの眉間に深い皺が刻まれた。
「たかが言葉で、鍛え上げた兵士の忠誠が揺らぐと?」
「いえ、揺らぐとか、そういうつもりは全然なくて——」
そのとき、ヴァルゼンの腹が鳴った。
ぐぅぅぅぅ、と。
場にそぐわない、切実な空腹の音が、戦場のど真ん中に響き渡った。
(——今!? よりによって今!?)
ヴァルゼンの顔が真っ赤に染まった。強硬派の本陣で、総大将と対峙しているこの瞬間に、腹が鳴る。人生で最悪のタイミングだった。
静寂が流れた。
そして——周囲の魔族兵がざわめいた。
「……おい、今の聞いたか」
「ああ。腹の虫が鳴いたぞ。あの魔王の」
「だが、なんだ、この——威圧感。腹の虫すら威圧的ってのは、どういうことだ……」
(威圧的じゃない! ただお腹が空いてるだけだ!)
ベリオスが、じっとヴァルゼンを見下ろしていた。
その深紅の目が、わずかに——ほんのわずかに——揺れたのを、ヴァルゼンは見逃していた。
「……来い」
ベリオスが踵を返した。
「本陣で話を聞いてやる。——空腹では話もできまい」
(え。あれ。殺されない……?)
ヴァルゼンは、理解が追いつかないまま、巨大な背中についていった。
武器が降りる音は、まだ続いていた。
一つ、また一つ。
金属が大地に触れる——その小さな音の連鎖が、強硬派の終わりの始まりだったことを、このとき誰も知らなかった。




