攻撃を前に、微動だにせず
攻撃を前に、微動だにせず
将校の名はドルガンといった。
中堅将校。大戦を生き延びた歴戦の戦士。ベリオス直属ではないが、強硬派の中核を担う隊長の一人だ。
その剣が、ヴァルゼンに向けられていた。
兵士たちが壁になっている。だが、ドルガンの戦闘力は下級兵の比ではない。本気で斬りかかれば、兵士たちごとヴァルゼンを両断できるだろう。
「どけ。最後の警告だ」
ドルガンの声は低く、静かだった。激昂は収まり、冷たい殺意に変わっている。プロの殺気だ。
(あ、これ本気のやつだ。目が完全に据わってる)
ヴァルゼンの体が凍りついた。
足が動かない。
文字通り、動かなかった。恐怖で筋肉が硬直し、一歩も退くことができない。逃げたい。走りたい。だが脳からの命令が、脚に届いていない。
(動け。動けってば。お願いだから動いてくれ、僕の足)
動かなかった。
兵士たちの壁が、わずかに揺らいだ。ドルガンの殺気に、最前列の者たちが本能的に怯んだのだ。
その隙間から——ドルガンの視線が、まっすぐにヴァルゼンを射抜いた。
「……ほう」
ドルガンの目が、わずかに細くなった。
「微動だにしないか。偽魔王」
(動けないだけです! 足がすくんでるだけです! お願いだから察してくれ!)
ドルガンが一歩、前に出た。兵士たちが左右に割れかけた。
「俺の殺気を受けて逃げもしない。それだけの胆力があるなら——なぜ戦わない。剣を取れ。魔王なら、力で示せ」
「僕は……剣は、持っていません」
「持っていない?」
「武器は何も。丸腰です」
ドルガンの歩みが止まった。
将校の顔に、初めて困惑が浮かんだ。
「……武器を持たずに敵陣に来たのか。本気で」
「本気です。戦いに来たんじゃないから」
「では何をしに来た」
「話を、しに来ました」
ドルガンが鼻で笑った。だが、その笑いには力がなかった。
「話。魔王が。剣も持たずに。敵の陣営に。話をしに来たと」
「はい」
「馬鹿か、貴様は」
「……よく言われます」
(それも本当だ)
ドルガンの剣が——振り下ろされた。
ヴァルゼンの右頬の横を、風が切り裂いた。髪が数本、宙に舞った。
斬撃は、ヴァルゼンの顔の横で止まっていた。
ヴァルゼンは——動かなかった。
動けなかったのだ。恐怖のあまり意識が飛びかけて、体が完全にフリーズしていた。
(え、今の、死んだ? 死んでない? 生きてる? 生きてるのか? 心臓が——心臓、動いてるか? 動いてる。生きてる。生きてた)
内心はこの有り様だったが——外見上、ヴァルゼンは刃を前にして瞬き一つしなかった。
兵士たちから、息を呑む音が聞こえた。
「……微動だにしなかった」
「あの距離で、あの斬撃を受けて——目すら閉じなかった」
「嘘だろ。ドルガン隊長の本気の一撃だぞ」
ドルガンが剣を引いた。その手が、かすかに震えていた。
「何者だ、貴様は」
声の色が変わっていた。怒りでも侮蔑でもない。もっと根源的な感情——畏怖だった。
ヴァルゼンは、ようやく意識が戻ってきた。遅れて恐怖の波が押し寄せ、視界がぐらりと揺れた。
(倒れそう。膝から崩れそう。でも——今、ここで倒れたら、後ろの人たちが——)
奥歯を噛みしめた。
膝の震えを、渾身の力で押さえ込んだ。
そして——口を開いた。
「お前たちを殺したくない」
三度目だった。同じ言葉。同じ震える声。だけど今度は、ドルガンに向けて。
「お前たちだって、死にたくないだろう」
ドルガンの目が——揺れた。
「大戦で、たくさんの仲間を失っただろう。もう十分だ。十分じゃないか。これ以上、誰かが死ぬ必要なんてない」
「黙れ……」
「お前も、怖いんだろう。また戦争が始まって、また仲間が死んで——その繰り返しが怖いんだろう」
「黙れと言っている!」
ドルガンが叫んだ。だが、剣は振るわれなかった。
ヴァルゼンは見ていた。ドルガンの目に浮かんだもの——それは怒りの奥にある、深い疲労だった。
(この人も——疲れてるんだ)
「僕は弱いよ」
静かに言った。自分でも不思議なくらい、穏やかな声が出た。
「剣も使えない。魔法もまともに撃てない。魔王なのに、ゴブリンにすら勝てないかもしれない」
兵士たちがざわめいた。ドルガンの目が見開かれた。
「でも——弱いから、わかるんだ。戦いたくない気持ちが。死ぬのが怖い気持ちが。僕は、ずっとずっと怖かった。だから——お前たちの気持ちが、わかる」
沈黙が降りた。
風が吹いた。陣営の旗がはためく音だけが、静かに響いていた。
ドルガンの剣が——ゆっくりと下がった。
鞘には戻さなかった。だが、切っ先が地面を向いた。
その後ろで——一人の兵士が、自分の剣を地面に置いた。
金属が石に触れる、乾いた音。
二人目が続いた。三人目。四人目。
武器を降ろす音が、連鎖した。
カタン。カタン。カタン。
二十人以上の兵士が、次々と武器を手放していった。
ドルガンは動かなかった。部下たちが武器を降ろすのを、呆然と見つめていた。
「隊長」
あの少年兵が、静かに言った。
「もう——いいんじゃないですか」
ドルガンの剣を持つ手から、力が抜けた。
刃が——地面に落ちた。
その音は、どんな咆哮よりも大きく、陣営に響いた気がした。
ヴァルゼンの膝が——ついに折れた。
へなへなと地面に座り込む。緊張の糸が切れて、全身から力が抜けていた。
(怖かった。死ぬかと思った。本当に死ぬかと思った……)
兵士たちが駆け寄ってきた。
「魔王様! 大丈夫ですか!」
「だ、大丈夫です。ちょっと、足が——」
「……あんた、やっぱり変な魔王だな」
故郷に帰りたいと言った兵士が、笑っていた。
泣きそうな顔で、笑っていた。
ヴァルゼンも——泣きそうな顔で、笑い返した。
「うん。自分でもそう思う」
陣営の奥——ベリオスの本陣に向かう道が、開かれつつあった。
下級兵の動揺は、もはや止められない。この波は本陣にも届くだろう。
だがその前に——腹が、鳴った。
盛大に。
陣営全体に響き渡るような、腹の虫の大合唱。
兵士たちが固まった。
「……今の」
「あ、いえ。これは——朝から何も食べてなくて——」
「腹の虫すら……威圧的だ……」
「違う! ただの空腹です!」
弁解は、誰の耳にも届かなかった。
こうして——「偽魔王ヴァルゼンは、腹の虫で兵士を威圧する」という新たな伝説が、強硬派の陣営に刻まれることになった。
ヴァルゼンは、差し出された干し肉を齧りながら思った。
(なんでいつもこうなるんだ)
答えは出なかった。たぶん、一生出ない。




