魔王の声が響く陣
魔王の声が響く陣
噂は、火のように広がった。
最初の三人と話してから、まだ半刻も経っていない。それなのに——ヴァルゼンの周囲には、いつの間にか二十人以上の魔族兵が集まっていた。
(増えてる。なんで増えてるんだ)
木箱が積まれた補給区画の一角。本来なら兵士たちが荷下ろしをしているはずの場所に、円を描くように魔族たちが座り込んでいた。その中心に、ヴァルゼンがいた。
(なんで僕が車座の真ん中にいるんだ。これ、どう見ても包囲されてるのと同じ構図だぞ)
だが、兵士たちの目に敵意はなかった。あるのは——困惑と、わずかな希望と、そして疲労だった。
「本当なのか。魔王が一人で来たってのは」
「本当だよ。ほら、見ての通り武器もないし」
「信じらんねぇ……」
最初に接触した三人の兵士が、仲間を連れてきたのだ。「変な魔王がいる」と。その仲間がさらに仲間を呼び、気がつけばこの有り様だった。
(これ、大丈夫なのか。こんなに集まったら上官に見つかるんじゃ——)
若い魔族兵が、おずおずと手を挙げた。角が一本だけの、まだ少年と呼べるような歳の兵士だった。
「あの……魔王様」
「は、はい」
「俺の兄貴は、大戦で死にました」
場の空気が変わった。
「兄貴は強かった。でも、人間の騎士団に囲まれて——帰ってこなかった」
少年兵の声が震えていた。
「母さんは泣いて、父さんは酒に溺れて。俺は兵士になるしかなかった。先代魔王のために戦って死んだ兄貴と同じように、ベリオス将軍のために戦って死ねって——そう言われて、ここにいる」
ヴァルゼンは何も言えなかった。
「魔王様。あんたは本当に——俺たちを殺したくないのか」
「……殺したくない」
「じゃあ、人間はどうなんだ。人間の勇者と組んでるあんたは、俺たちの敵じゃないのか」
周囲の兵士たちの目が、一斉にヴァルゼンに集まった。
核心の問いだった。
魔族でありながら人間の勇者と手を組んだ魔王。彼らにとって、それは「裏切り者」だ。ベリオスはそう宣伝してきた。だからこそ強硬派は挙兵した。
ヴァルゼンは——正直に答えた。
「僕は、魔族も人間も殺したくない」
簡単な言葉だった。子供でも言える言葉だった。
「えっ」
「魔族だから味方、人間だから敵——そういうのは、僕にはよくわからないんです。目の前で誰かが死ぬのが嫌なんだ。それが魔族でも、人間でも」
兵士たちがざわめいた。
「そんな——そんなの、魔王の言うことじゃないだろ」
「うん。僕も、自分が魔王に向いてないとは思ってます」
(心の底からそう思ってる)
「でも——向いてなくても、僕は今ここにいる。お前たちに、死んでほしくないから」
静寂が広がった。
二十数人の魔族兵が、言葉を失っていた。
——その時だった。
「何をしている!」
鋭い声が飛んだ。
兵士たちの輪の外から、鎧を纏った魔族が歩いてきた。中堅の将校だ。肩に隊長の徽章をつけ、腰には立派な長剣を佩いている。
「補給区画で何を怠けている。持ち場に——」
将校の目が、ヴァルゼンを捉えた。
額の小さな角。灰銀の髪。淡い紫の瞳。そして、全身から漂う圧倒的なまでの——弱さ。
「貴様——まさか」
「ヴァルゼン、です。あの、こんにちは」
(こんにちはって何だ。敵陣で挨拶してどうする)
将校の顔が赤く染まった。怒りだ。
「裏切り者の偽魔王がなぜここにいる! 誰がこいつを入れた!」
兵士たちが萎縮した。先ほどまでの穏やかな空気が、一瞬で凍りついた。
「お前たち! この男に惑わされたのか! ベリオス将軍の命令を忘れたか!」
将校が剣を抜いた。
「偽魔王。貴様をここで斬れば、将軍への手土産になる」
(やっぱりこうなった。やっぱりこうなると思ってた)
ヴァルゼンの膝が震えた。逃げ出したい。今すぐ全力で走り出したい。
だが——後ろには、二十数人の兵士がいる。
故郷に帰りたいと言った兵士。兄を亡くした少年兵。疲れ切った顔で、それでもヴァルゼンの話を聞いてくれた人たち。
ここで逃げたら、この人たちが「偽魔王に加担した」として罰を受ける。
(逃げられない)
逃げたいのに。死ぬほど逃げたいのに。
ヴァルゼンは——その場に立ち続けた。
「お前たちを殺したくない」
震える声で、もう一度言った。
「お前たちだって——死にたくないだろう」
将校の剣が振り上げられた。
「黙れ! 魔族の誇りを——」
「待ってくれ!」
叫んだのは、兵士たちだった。
一人が将校の前に立ちはだかった。故郷に帰りたいと言った、あの兵士だ。
「隊長。この人の話を、聞いてやってください」
「どけ! 貴様も裏切るつもりか!」
「裏切りじゃない。俺は——」
兵士の声が、震えていた。
「俺は、もう誰も死なせたくないだけです」
将校の剣が、空中で止まった。
周囲の兵士たちが、一人、また一人と立ち上がった。将校とヴァルゼンの間に——壁のように。
将校の目が、動揺で揺れた。
「お前たち……正気か」
「正気です。正気だから、こうしてるんです」
ヴァルゼンは、その光景を見ていた。
自分を守るために立ち上がった兵士たち。ついさっきまで敵だった人たち。
(この人たちは——僕なんかのために——)
胸の奥が、熱くなった。
恐怖は消えていなかった。膝はまだ震えていた。だけど、その震えの中に——確かに、感謝があった。




