魔族兵は語る
魔族兵は語る
強硬派の陣営は、想像以上に大きかった。
丘陵地帯に広がる天幕の群れ。旗がはためき、篝火が煙を上げ、武装した魔族たちが行き来している。遠くからでも、その威圧感は十分すぎるほど伝わってきた。
(帰りたい)
開始三秒で心が折れかけた。
ヴァルゼンは陣営の外縁部——最も警備が薄い東側の補給路を歩いていた。ザガンの情報によれば、この辺りには戦意の低い下級兵が多く配置されているという。
(下級兵。下級って言っても魔族の兵士だからね。僕より百倍は強いからね)
灰色のフードを深く被り、足音を殺して進む。心臓が喉元まで迫り上がっている気がした。
補給物資の木箱が積まれた一角で、声が聞こえた。
「——もう嫌だ」
低い声だった。疲れ切った、力のない声。
「何が嫌だ。命令だろう」
「命令だからって、またあの化け物みたいな人間どもと戦えってのか。大戦で何人死んだと思ってる」
「黙れ。ベリオス将軍の耳に入ったら——」
「入ったらどうなる。俺たちが真っ先に前線に放り出されて死ぬだけだ。今と何が違う」
木箱の陰に、三人の魔族兵が座り込んでいた。
若い。ヴァルゼンと同じくらいか、もっと若いかもしれない。角や尾の形状は様々だが、その顔に浮かぶ疲弊は共通していた。
(この人たちだ。ザガンが言っていた——戦いたくない兵士たち)
ヴァルゼンの足が止まった。
ここで声をかけるべきだ。ザガンはそう言った。「言葉を届けてください」と。
だが——足が動かない。
(怖い。見つかったら殺される。いや、そもそも僕が何を言ったところで——)
木箱の陰の兵士が、鼻をすすった。
「……故郷に帰りてぇよ」
その一言が、ヴァルゼンの胸を突いた。
故郷に帰りたい。
それは——ヴァルゼン自身が、ずっと思っていたことと同じだった。安全な場所に帰りたい。誰にも脅かされない場所で、静かに暮らしたい。
気がつけば、フードを脱いでいた。
三人の魔族兵が、一斉に振り向いた。
「——誰だ!」
一人が腰の剣に手をかけた。ヴァルゼンの額の小さな角が露わになり、兵士たちの目が見開かれた。
「魔族……? おい、お前、どこの部隊だ」
「ぼ、僕は——」
声が震えた。足も震えた。全身が震えていた。
だけど、逃げなかった。
逃げたかった。心の底から逃げたかった。だけど——この人たちの「帰りたい」を聞いてしまったから。
「僕は——ヴァルゼンです」
沈黙が落ちた。
三人の兵士が、互いの顔を見合わせた。
「ヴァルゼン? まさか——あの、魔王の?」
「は、はい。その……魔王、ということに、なっているらしい僕です」
(なっているらしい、は余計だった)
兵士の一人が剣を抜いた。刃がヴァルゼンの喉元に突きつけられた。
(死ぬ)
「裏切り者の偽魔王がなぜここにいる!」
声が上擦っている。恐怖だ。兵士の手も震えている。
「あ、あの。戦いに来たわけじゃないんです」
「嘘をつくな! 勇者パーティの手先が——」
「本当です。一人で来ました。武器も、ありません」
両手を広げて見せた。本当に何も持っていない。丸腰だ。ゴブリン以下の戦闘力で、完全に丸腰。
(冷静に考えると、正気の沙汰じゃないな)
剣を突きつけている兵士の手が、さらに震えた。
「……本当に、一人なのか」
「はい」
「なぜだ。罠か」
「罠じゃないです。僕に罠を仕掛けるような頭はありません」
(これは本当だ)
残りの二人が、じっとヴァルゼンを見つめていた。
一人が——先ほど「故郷に帰りたい」と言った兵士が、口を開いた。
「……あんたが、魔王ヴァルゼンか」
「はい」
「噂は聞いてる。人間の勇者と手を組んで、同胞を裏切った魔王だと」
胸が痛んだ。
「裏切ったつもりは……ないんです。僕は、ただ——」
言葉に詰まった。
何と言えばいい。自分がなぜここにいるのか。なぜ一人で来たのか。
考えて、考えて——結局、一番正直な言葉が口から出た。
「僕は、戦いたくないんです」
三人の兵士が、息を呑んだ。
「お前たちも——戦いたくないんだろう」
剣を持つ兵士の手が、止まった。
「さっき聞こえたんです。故郷に帰りたいって。……わかるよ。僕も帰りたい。安全な場所で、誰にも怒られずに、静かに暮らしたい。そう思ってるのは——僕もお前たちも、同じなんだ」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
交渉術でも、深謀遠慮でもない。ただの本音だった。
剣が——ゆっくりと、下がった。
「……魔王が、戦いたくないだと?」
「うん。だって、戦ったら誰かが死ぬでしょう。僕は……お前たちを、殺したくない」
兵士たちの目が揺れた。
先ほどまでの敵意が、困惑に変わっていた。
「殺したくない……」
「故郷に帰りたいなら、帰ればいいと思うんだ。戦争なんかしないで。生きて、帰って、平和に暮らして。それじゃ——駄目なのかな」
自分の声が、自分でもおかしいくらい小さかった。
魔王の言葉には到底聞こえなかっただろう。威厳も、カリスマも、何もない。ただの——怖がりの青年の、心からの願いだった。
故郷に帰りたいと言った兵士が——剣を鞘に戻した。
「……あんた、本当に魔王か?」
「一応、そういうことになっています」
「魔王が、俺たちを殺したくないって言うのか」
「言います。本気で」
長い沈黙があった。
兵士が、座り込んだ。膝から力が抜けたように。
「……変な魔王だな」
「よく言われます」
それは——嘘ではなかった。




