遺書の内容は「ペットの世話をお願いします」
遺書の内容は「ペットの世話をお願いします」
出発前夜。
ヴァルゼンは、部屋の机に向かっていた。
窓の外はもう暗い。蝋燭の灯りが揺れるたびに、紙の上の自分の影も揺れる。明日の朝には、ここを発つ。一人で。魔族の軍勢が待ち構える敵陣へ。
(遺書、書いておこう)
縁起でもない、と思う。思うが、書かずにはいられない。
羽根ペンを握り、インク壺に浸した。手が震えた。何度か深呼吸をして、ようやく文字を綴り始めた。
——エルヴィンさんへ。短い間でしたが、お世話になりました。
ここで手が止まった。
(何を書けばいいんだ。『実は僕は最弱でした。全部誤解です。ごめんなさい』? それを読んだエルヴィンさんが受けるショックを考えると……いや、多分ショックは受けない。『これすら深謀遠慮だ!』って解釈される。絶対にそうなる)
方針を変えた。
真実の告白は諦めて、実務的な内容にしよう。
——部屋で飼っているゴブリンヘッジホッグの「プリン」の世話をお願いします。朝と夕方に虫を五匹ずつ。水は毎日替えてください。寒い日は布をかけてあげてください。撫でるときは背中の針に気をつけてください。名前を呼ぶと丸くなりますが、怒っているわけではなく照れているだけです。
気づけば、ペットの世話に関する記述が羊皮紙の半分を埋めていた。
(これ、遺書なのかペットの飼育マニュアルなのかわからなくなってきた)
構わず続けた。
——グリゼルダさんへ。プリンは人見知りなので、最初は怖がるかもしれません。でも三日くらいで慣れます。剣を持ったまま近づくと怯えるので、素手でお願いします。
——フェリクスさんへ。プリンの行動に深い意味はありません。丸くなるのは眠いか照れているかのどちらかです。分析しないであげてください。
——ミラベルさんへ。プリンが鳴くのは空腹のサインです。泣かないでください。虫をあげれば鳴き止みます。
——ザガンさんへ。プリンに敬語は不要です。
書き終えて、読み返した。
(うん。完全にペットの飼育マニュアルだ)
でも、これでいい。この人たちに伝えたい大事なことは、たぶん、こういうことだ。
手紙を封筒に入れ、机の上に置いた。枕元には置かない。さすがに朝まで見つからないでほしい。
そう思って寝台に横になったが——やはり眠れなかった。
天井を見つめていると、恐怖が際限なく膨らんでいく。
(ベリオス将軍。先代魔王の下で最強を誇った将軍。力こそ全てと信じる男。そんな人の前に、僕が一人で立つ。ゴブリン以下の戦闘力で。何の武器も持たずに)
胃が痛い。
もう三回、胃薬を飲んだ。
四回目に手を伸ばしかけたとき——廊下から足音が聞こえた。
複数の足音だ。しかも、忍び足で。
(敵襲? いや、ここは王都の宿舎だぞ。まさか暗殺者?)
身を固くしていると、隣の部屋からエルヴィンの大きな声が聞こえた。声量を落としているつもりなのだろうが、壁を貫通している。
「——変装はこれでいいか。ザガン、手配した潜入経路は?」
「万全です。陛下が陣営に入る頃には、我々は外縁部の三箇所に配置完了できます」
グリゼルダの声も聞こえた。
「私は陣営北側の林に潜伏する。万が一のときは、三十秒で本陣に到達できる距離だ」
「私は情報収集用の魔導具を持ち込みます」
フェリクスの冷静な声。
「ヴァルゼン殿の交渉の推移をリアルタイムで把握できれば、支援のタイミングを逃しません」
最後にミラベルの声。
「回復魔法の詠唱、短縮版を練習してきました。七秒で完全回復できます」
(全員起きてるじゃないか)
ヴァルゼンは布団を被ったまま、じっと耳を澄ませた。
この人たちは、自分のために夜通し準備をしている。最凶の魔王のためではなく——いや、彼らにとってはそうなのだろうが——ヴァルゼンという一人の人間を守るために。
(……ありがたいな)
素直に、そう思った。
誤解であっても。前提が全部間違っていても。この人たちの心配は本物だ。
少しだけ——ほんの少しだけ、胃の痛みが和らいだ気がした。
翌朝。
ヴァルゼンが部屋を出ると、机の上の封筒がなくなっていた。
(え)
廊下でグリゼルダとすれ違った。彼女は無言でヴァルゼンに敬礼し——その目が、わずかに赤かった。
「グリゼルダさん? あの、目が——」
「砂が入っただけだ」
即答だった。
朝食の席で、エルヴィンが妙に感動した顔をしていた。
「ヴァルゼン。お前——昨夜、遺書を書いていたな」
(見られた)
「武人として、戦場に赴く前に覚悟を記す。それは最も尊い行為だ」
「いえ、あれはその——」
「内容も読ませてもらった」
(読んだの?!)
エルヴィンの碧い瞳が濡れていた。
「『プリンの世話をお願いします』——たった一匹の小さな命すら、お前は忘れないんだな。どんな戦場に向かう時も、守るべきものを見失わない。それが……お前の強さだ」
(ペットの飼育マニュアルから何を読み取ってるんだ)
グリゼルダが小さく頷いた。
「あの遺書には、一言も自分のことが書かれていなかった。すべてが、残される者たちへの気遣いだった。——私は、恥ずかしくなりました。あの方の器の前では」
「砂が入ったのでは?」
「……今度のも砂だ」
ミラベルはもう泣いていた。フェリクスは静かに微笑んでいた。ザガンだけが、いつもの読めない表情で茶を飲んでいた。
その尾が——ゆっくりと、左右に揺れていた。
ヴァルゼンは、パンを齧りながら思った。
(ペットの世話を頼んだだけで、なんでこんな感動大会になってるんだ)
だけど。
この人たちが隣にいてくれることが——今だけは、心の底からありがたかった。
出発の時刻が、近づいていた。




