決断の朝
決断の朝
夜が明けた。
ヴァルゼンは一睡もできなかった。ベッドの上で天井を見つめたまま、何度も何度も、同じ思考を繰り返していた。
(行くのか。本当に行くのか。敵の陣営に。一人で。三万の兵の真ん中に)
恐怖が全身を支配していた。手が震え、足が冷たく、胃の底が鉛のように重い。
だが——逃げるという選択肢は、もう消えていた。
朝食の席で、パーティ全員が揃った。
エルヴィン。グリゼルダ。フェリクス。ミラベル。ザガン。
六人分の朝食がテーブルに並んでいる。湯気が立つスープ。焼きたてのパン。ミラベルが淹れた紅茶。いつもの朝だった。
だが——この朝食が、戦争を前にした最後の穏やかな朝になるかもしれない。
「皆さん」
ヴァルゼンが口を開いた。全員の視線が集まった。
「昨夜、ザガンから報告がありました」
ザガンが地図を広げ、強硬派の内部事情を説明した。一枚岩ではないこと。下級兵の多くが戦いを望んでいないこと。南東の搬入路が手薄であること。
パーティの表情が変わっていった。
「——つまり、交渉の余地がある」
フェリクスが真っ先に要点を掴んだ。
「正面衝突を避け、内部の厭戦感情を利用して軍を瓦解させる。理に適った作戦です」
「で、誰が行くんだ?」
エルヴィンが訊いた。
沈黙が落ちた。
ヴァルゼンは——深呼吸をした。震える息を、ゆっくりと吐き出した。
「僕が行きます」
短い沈黙。
「ベリオスの陣営に。一人で。交渉しに」
沈黙が、鉄のように重くなった。
最初に動いたのはエルヴィンだった。太陽のような笑顔が消え、碧い瞳が鋭くなった。
「——ヴァルゼン。それは、さすがに賛成できない」
グリゼルダが一歩前に出た。
「同感です。単身で敵陣に赴くなど、武人として看過できません」
ミラベルが目に涙を浮かべた。
「ヴァルゼン様……そんな危険なこと……」
フェリクスがモノクルを押し上げた。
「軍事的に見ても愚策です。交渉の切り札を敵の懐に差し出すようなものだ」
(切り札って僕のことか。ゴブリンより弱い切り札って何だ。ジョーカーですらない。白紙のカードだ)
反対の嵐。予想通りだった。
ヴァルゼンは胃の痛みを堪えながら、震える声で続けた。
「大人数で行ったら、戦争の使者に見えるんです。勇者パーティが揃い踏みなんて、完全に宣戦布告じゃないですか」
フェリクスの目が光った。
「……なるほど。あえて弱い立場を見せることで相手の警戒を解く。最小人数での交渉は、敵意のなさを証明する最も効果的な手段だ」
(そこまで考えてない。仲間を危険にさらしたくないだけなんだ)
ザガンが静かに頷いた。
「陛下が単身で赴くことの意味を、最も深く理解しておられる」
(理解してない。怖いから一人で行くんだ。一人分の被害で済むように)
エルヴィンが腕を組み、長い沈黙の後に息を吐いた。
「……わかった」
「え」
「お前がそこまで考えて出した結論なら——俺は信じる」
碧い瞳が、まっすぐにヴァルゼンを見た。
「ただし、条件がある。俺たちは離れた場所で待機する。何かあったら即座に突入する。それだけは譲れない」
「私も陣営の外縁に潜伏します」
グリゼルダが大剣の柄に手をかけた。
「万が一の際は——三十秒で本陣に到達できる距離を維持します」
フェリクスが手帳を開いた。
「通信魔具で連絡を維持します。交渉の推移をリアルタイムで把握する必要がある」
ミラベルが涙を拭いて立ち上がった。
「回復魔法の短縮詠唱を練習します。七秒で完全回復できるように」
全員が——反対から、支援に切り替わっていた。
ヴァルゼンは泣きそうだった。
(なんでこの人たちは、こんなに……僕なんかのために……)
「……ありがとう、ございます」
声が掠れた。
エルヴィンが拳を突き出した。
「礼を言うな。仲間だろう。——行ってこい、ヴァルゼン。お前なら、できる」
拳を合わせた。骨同士がぶつかって痛かった。
グリゼルダが深く頭を下げた。
「覚悟の震え——武人として、最大の敬意を表します」
(覚悟の震えじゃなくて、恐怖の震えなんだけど。でも——今は、訂正しない)
ミラベルが両手でヴァルゼンの手を包んだ。
「必ず——必ず無事に戻ってきてください」
「うん。……必ず戻る」
(戻れるかわからない。でも、この人の前では「戻れないかも」とは言えない)
フェリクスが静かにモノクルを拭いた。レンズが曇っていた。
「魔王殿。あなたの判断は——私には真似できません」
ザガンが一歩前に出た。
「陛下。敵陣の配置と警備の隙間は把握済みです。最も安全な侵入経路を、最終確認いたします」
「ザガン」
「はい」
「——ありがとう」
ザガンの表情が、わずかに崩れた。ほんの一瞬——先代魔王に仕えていた頃の、若い参謀の顔が覗いた。
午後は準備に費やされた。
ザガンが侵入経路を最終確認し、フェリクスが通信魔具の動作を検証した。グリゼルダは変装用の衣装を調達し、ミラベルは治癒薬を詰めた鞄を三つ用意した。
エルヴィンは——ヴァルゼンの隣で、ずっと黙って座っていた。
「エルヴィン。何も言わないの?」
「ん? ああ。お前が決めたことだ。俺が言うことは何もない」
「……いつもは色々言うのに」
「いつもとは違うだろ。——お前は今、本気だ。本気の人間に、余計な言葉はいらない」
ヴァルゼンは少し驚いた。エルヴィンは太陽のような男だが、こういう時に黙って寄り添えるのは——やはり、勇者の器なのだろう。
(僕は勇者じゃない。でも——この人たちがいてくれるから、臆病者でも前に進める)
出発は明日の未明。
全面戦争まで、あと二日。
ヴァルゼンの決断の朝は——こうして、仲間たちの覚悟とともに過ぎていった。




