戦わずに勝つ方法
戦わずに勝つ方法
ザガンが戻ってきたのは、深夜だった。
ヴァルゼンは眠れずに起きていた。胃痛とストレスで暴飲暴食した後の胃もたれが、眠りを妨げていた。
扉が静かに開き、ザガンが滑り込むように入ってきた。黒い外套の裾が泥で汚れている。夜通し移動していたのだろう。
「ザガン! 大丈夫だった? 怪我は?」
「ご心配には及びません。——陛下、重要な情報があります」
ザガンが椅子に腰を下ろし、地図を広げた。
「強硬派内部は、一枚岩ではありません」
「え?」
「ベリオス将軍の直轄部隊——約五千名は、将軍に絶対の忠誠を誓っています。しかし残りの二万五千名の大半は、徴兵された一般の魔族兵です。村を守るため、家族のため、やむなく従った者たちが多い」
ヴァルゼンは身を乗り出した。
「その人たちは——戦いたくないの?」
「はい。私の接触した内通者によれば、下級兵の多くが『戦いたくない』と口にしているそうです。ただし、ベリオス将軍に逆らう勇気がない」
「逆らう勇気が……」
「ベリオス将軍は絶対的な力を持っています。力こそが秩序。逆らえば粛清される——そういう恐怖が、軍を支えている」
ヴァルゼンは膝の上の拳を握った。
(力で支配されている。恐怖で従わされている。——それは、僕がかつて魔王軍にいた頃と同じだ。いや、僕の場合は恐怖で支配する側ですらなかった。ただの飾りだった。でも——あの息苦しさは、知っている)
「もう一つ」
ザガンが地図の一点を指さした。ベリオス本陣の南東。
「ベリオス将軍の陣営には、物資の搬入路が三本あります。うち南東の一本は警備が手薄です。——理由は、この経路を使っているのが下級兵の補給部隊だからです」
「下級兵の……」
「はい。精鋭の直轄部隊は北と西の経路を使用しています。南東路は、いわば裏口。ここを通れば——本陣に至る前に、下級兵の宿営地を通ることになります」
ヴァルゼンは地図を食い入るように見つめた。
(南東の搬入路。下級兵の宿営地。戦いたくない人たちが集まっている場所。そこを通れば——)
「ザガン。それなら——方法があるんじゃないか」
「方法、とは」
「ベリオス将軍と直接話す前に、まず下級兵に会う。『戦わなくていい』と伝えたら——剣を降ろしてくれる人がいるかもしれない。内側から、戦意を——」
「——崩す」
ザガンが静かに言った。
「戦わずに勝てる。正確には、戦わずに戦争を終わらせる」
(心理戦じゃない。ただ「話がしたい」だけなんだけど)
だが——ザガンの目に、かすかな光が宿っていた。いつもの読めない表情ではなく、何かを確信した目。
「陛下。この作戦には条件があります」
「条件?」
「誰が行くか、です。将軍や兵士を送っても意味がない。下級兵たちは権力者の言葉を信じません。必要なのは——力ではなく、心に訴えかけられる者」
ザガンの視線が、まっすぐにヴァルゼンを射抜いた。
その意味を——理解するのに、三秒かかった。
(……僕か)
「もう少し詳しく——」
「もちろんです。作戦の骨子をご説明します」
ザガンが地図の上に駒を並べ始めた。侵入経路、警備の交代時刻、下級兵の宿営地の配置、ベリオス本陣までの距離。四百七十年の経験に裏打ちされた情報が、淡々と並べられていく。
「南東路から侵入し、下級兵の宿営地を通過。ここで接触、対話。その後、本陣に向かいベリオス将軍と直接会談。——全行程、約六時間」
「六時間……」
「ただし」
ザガンの声が低くなった。
「この作戦は、陛下がお一人で赴くことを前提としています」
予感はあった。予感はあったが——実際に言葉として聞くと、胃の底が鉛のように沈んだ。
「一人、か」
「大人数で行けば、戦争の使者に見える。少人数でも、護衛付きでは交渉ではなく威圧になる。一人の魔族が、話をしに来た——それだけが、あの兵たちの心を開く唯一の鍵です」
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が揺れた。ヴァルゼンの影が壁に大きく映っている。実物より遥かに大きな影。——いつもそうだ。僕の「影」は、本体よりずっと大きい。
(怖い。死ぬほど怖い。敵の真ん中に一人で飛び込むなんて、自殺行為だ。でも——)
地図の上の駒を見つめた。三万を表す赤い石。その一つ一つが、帰りたいと思っている誰かだ。
「……ザガン」
「はい」
「この作戦——明日の朝、パーティのみんなに話そう」
「承知しました。——ただし、反対されるでしょう」
「わかってる」
わかっていた。エルヴィンが怒り、グリゼルダが諫め、フェリクスが論理で止めにかかり、ミラベルが泣く。目に浮かぶようだ。
「それでも——話さなきゃいけない。僕一人で決めていいことじゃない」
ザガンの尾が、ゆっくりと揺れた。
「……さすがは陛下」
(何がさすがなんだ。怖くて一人で決められないだけだ)
深夜の部屋で、二人は地図を挟んで向かい合っていた。
ヴァルゼンは紅茶を淹れた。二人分。
「陛下。ご自分で淹れてくださるとは——」
「ザガンだって疲れてるでしょ。泥だらけで帰ってきて。これくらいしかできないけど」
ザガンが紅茶を受け取り、一口飲んだ。
「……美味しい」
「魔王軍にいた頃、自分で淹れるしかなかったから。従者とか誰もつけてくれなかったし」
ザガンの手がわずかに震えた。先代魔王の下では末端の扱いだった主の過去が、こういう些細な技術に刻まれている。
「陛下」
「うん?」
「明日——必ず、お力添えします」
「ありがとう、ザガン」
窓の外が、ほんの少しだけ白み始めていた。
夜明けが近い。
決断の朝が来る。




