ザガン、動く
ザガン、動く
ザガンが姿を消したのは、その日の夕刻だった。
「ザガンはどこに?」
ヴァルゼンが食堂で訊ねると、グリゼルダが答えた。
「偵察に出たと。詳細は明かさなかったが、『陛下のために必要な情報を取りに行く』と」
(ザガンが自ら動くなんて、よほどのことだ。大丈夫かな。あの人は頭脳派で、前線向きじゃないのに)
心配だった。純粋に心配だった。
しかし心配だからといって、食欲が減るわけではなかった。むしろ逆だった。
ストレスが、ヴァルゼンの食欲を暴走させていた。
「すみません、おかわりお願いします」
「三杯目ですが」
「……四杯目でお願いします」
宿の女将が目を丸くしたが、大盛りのシチューを運んできた。パンも追加で三つ。チーズの盛り合わせ。干し果物。
ヴァルゼンは黙々と食べた。味はほとんどわからなかった。ただ、何かを口に入れていないと不安で押しつぶされそうだったのだ。
(食べてる場合じゃない。全面戦争まであと一日半。ザガンは偵察に出た。僕は何もできていない。なのに——止まらない。食欲が止まらない)
エルヴィンが向かいの席で、感嘆の声を上げた。
「さすがだな、ヴァルゼン殿! 戦前の英気養いか! 歴戦の魔王は、食事一つとっても抜かりがない!」
(英気を養ってるんじゃない。ストレスで暴飲暴食してるんだ)
「俺も負けてられんな! 女将! 俺にもシチューをもう二杯!」
「エルヴィンさん、そういうことじゃ——」
「大戦を戦い抜いた魔王が腹を満たす。つまり決戦に備えているということだ。ならば俺も、勇者として備えなければ」
(備えてない。ただ食べてるだけだ。なんでこの人はいつも僕の行動に深い意味を見出すんだ)
フェリクスが手帳に何かを書きつけていた。
「興味深い。ヴァルゼン殿は極限の緊張状態において、あえて平常の行動を取ることで精神の均衡を保っている。いわば——戦術的平常心の維持。これは凡百の将にはできない芸当です」
(平常じゃない。異常だ。シチュー四杯は異常だ)
ミラベルが、そっとヴァルゼンの傍にお茶を置いた。
「食べすぎると、お腹を壊しますよ」
「ありがとう、ミラベルさん……」
(この人だけだ。まともな反応をしてくれるのは)
その夜。
ザガンが戻ってきたのは、日付が変わる直前だった。
ヴァルゼンは眠れずに窓辺に座っていた。月明かりの下、黒い影が宿の裏口に滑り込むのが見えた。
(ザガンだ。無事だった)
部屋に通すと、ザガンの長衣には泥がついていた。靴にも。普段は一分の隙もない身なりの男が、泥だらけで戻ってくるなど初めてのことだった。
「ザガン、大丈夫ですか。怪我は——」
「ご心配なく。泥濘に足を取られただけです。——それより、陛下。報告があります」
ザガンが椅子に座り、地図を広げた。
「強硬派の陣営に潜入してきました」
「潜入って——一人で? 危険すぎますよ」
「四百七十年生きております。この程度の潜入は慣れたものです」
(慣れてても心配するものは心配するんだけど)
「結論から申し上げます」
ザガンの琥珀色の瞳が、月明かりに光った。
「強硬派は一枚岩ではありません」
「……どういうことですか」
「ベリオス将軍への忠誠は確かに厚い。しかしそれは上級将校に限った話です。中堅以下——特に下級兵の大半は、戦いたくないと思っている」
ヴァルゼンは目を見開いた。
「戦いたくない……」
「はい。彼らの多くは徴兵された一般の魔族です。家族がいる。村がある。大戦で疲弊した生活をようやく立て直しつつある中で、再び戦場に駆り出された。——本心では、帰りたいのです」
(帰りたい。うん、わかる。僕だって帰りたい。安全な場所に帰りたい。この人たちと同じだ)
「しかし、ベリオス将軍の権威と上級将校の圧力で、声を上げることができない。不満は内側に溜まっている。——この状況を、陛下はどうお考えになりますか」
ヴァルゼンは地図を見つめた。
三万の軍勢。その中に、帰りたいと思っている人たちがいる。
「……その人たちと話がしたい」
口をついて出た言葉だった。考えて言ったのではない。ただ——素直にそう思ったのだ。
「話?」
「うん。……いや、その。もし僕が直接会って、『戦わなくていい』って言えたら——もしかしたら、剣を降ろしてくれる人がいるかもしれない。殺さなくても、済むかもしれない」
ザガンが、じっとヴァルゼンを見た。
長い沈黙だった。
やがて——ザガンの尾が、微かに揺れた。
「……さすがは陛下」
今度の「さすが」は、いつもと少し違う響きだった。皮肉の成分が薄い。
「交渉で軍を内部から瓦解させる。兵站でも戦術でもなく、兵士一人一人の心に働きかける——高度な心理戦です」
(心理戦じゃない。ただ話がしたいだけなんだけど)
「しかし、極めて危険です。強硬派の陣営に乗り込むということは——」
「わかってます」
ヴァルゼンの声は、震えていた。
震えていたけれど——目だけは、地図の上の駒を見つめていた。
三万の駒。その一つ一つが、帰りたいと思っている誰かだ。
(怖い。死ぬほど怖い。でも——殺すよりはましだ。多分)
「ザガン。方法を考えてくれますか」
「……すでに考えております。明日の朝、詳細をご報告します」
「ありがとう」
「礼には及びません。——これが、私の仕事ですので」
ザガンが部屋を出た後、ヴァルゼンはベッドに倒れ込んだ。
怖い。本当に怖い。
でも——帰りたいと思っている人たちの顔が、頭から離れなかった。
会ったこともないのに。顔も知らないのに。
ヴァルゼンは布団を頭まで被って、眠れない夜を過ごした。
胃薬は、もう残り少なかった。




