魔族は言う、「同胞を殺すな」と
魔族は言う、「同胞を殺すな」と
軍議から戻ったヴァルゼンを待っていたのは、もう一つの板挟みだった。
宿の裏口に、三人の魔族が立っていた。
フードを目深に被り、人目を避けるようにして——それでも、尖った耳と灰色の肌は隠しきれていない。
「ヴァルゼン陛下」
先頭の魔族が跪いた。残りの二人もそれに倣う。年若い女の魔族と、隻眼の老魔族。ヴァルゼンは三人の顔に見覚えがあった。
「あなたたちは……穏健派の」
「はい。ゴーラン長老の使いで参りました」
穏健派。大戦後、人間社会との共存を望んで武器を捨てた魔族たちの一派だ。ヴァルゼンの魔王即位を支持し、人類連合との橋渡しに協力してくれている。
「立ってください。跪かなくていいですから」
「いえ、陛下の前では——」
「いいから立って。膝が汚れます」
三人は顔を見合わせ、恐る恐る立ち上がった。
(この人たちも、僕を魔王だと思っている。本当の僕を知ったら——いや、今はそれどころじゃない)
「用件を聞かせてください」
「はい。——お願いがございます」
先頭の魔族が、声を震わせた。
「どうか、同胞を殺さないでください」
ヴァルゼンの胃が、きりっと痛んだ。
「ベリオス将軍の軍勢には、徴兵された者が大勢おります。戦いたくて志願した者ばかりではないのです。村を守るため、家族を守るため、やむなく従った者たちが——」
「わかっています」
ヴァルゼンは言った。
「わかって……います」
(わかっている。わかっているんだ。さっき人間に「殲滅しろ」と言われて、声が出なかったのは——多分、そういうことだ)
「陛下の軍が動けば、あの三万は蹴散らされましょう。陛下のお力をもってすれば——」
(僕にそんな力はない。一兵たりとも蹴散らす力はない。でも、この人たちにそう言ったところで——)
「——ですから、どうか」
女の魔族が、涙を浮かべていた。
「私の弟が、ベリオス将軍の軍にいるのです。徴兵されて。まだ十六で、剣もまともに握れない子が——」
ヴァルゼンの胸が、締めつけられた。
殲滅しろ、と人間は言う。
殺すな、と魔族は言う。
両方の声が、頭の中でぶつかって砕けた。
「……わかりました」
ヴァルゼンは言った。何がわかったのか、自分でもよくわからなかった。だけど、泣いている人の前で黙っていることができなかった。
「できる限りのことは、します。約束は——できないけど」
「陛下……!」
三人が再び跪こうとした。ヴァルゼンは慌てて止めた。
「だから立ってって……!」
穏健派の使者が去った後、ヴァルゼンは宿の自室に戻った。
椅子に座った途端、両手で顔を覆った。
(無理だ。こんなの無理だ。人間は殲滅しろと言い、魔族は殺すなと言う。両方の期待に応える方法なんて——)
胃がまた痛んだ。今度は鋭く、深く。
ヴァルゼンは机の引き出しから胃薬を取り出し、水なしで噛み砕いた。苦い。苦すぎる。
(胃薬がこんなに減るの、初めてだ。ベリオスが挙兵してから三瓶目だぞ)
扉を叩く音がした。
「陛下。ザガンです」
「……どうぞ」
ザガンが入ってきた。その琥珀色の瞳が、一瞬だけ机の上の胃薬に向けられた。しかし何も言わなかった。
「穏健派の使者が来ていたようですね」
「見ていたんですか」
「護衛の一環です。——内容は」
「……同胞を殺すなって」
ザガンが、微かに目を伏せた。
「なるほど。人類連合からは殲滅を求められ、穏健派からは不殺を求められた。——板挟みですね、陛下」
「ザガン……僕、どうすればいいかわからない」
弱音だった。魔王にあるまじき弱音だった。
ザガンが言った。
「陛下。一つ、確認してもよろしいですか」
「なんですか」
「あなたは——殺したいのですか」
「殺したくない」
即答だった。考えるまでもなかった。
「人間も、魔族も。誰も殺したくない」
ザガンの尾が、微かに揺れた。
「……さすがは陛下」
(何がさすがなんだ。殺せる力がないだけだ。いや——力があっても、きっと殺したくない。多分。たぶんだけど)
「その答えを聞けただけで十分です。方策は、私が考えます。少しお時間をいただけますか」
「ザガン……」
「あと一つ」
ザガンは扉の前で振り返った。
「胃薬の件ですが——もう少し上等なものをご用意しましょうか」
「……お願いします」
ザガンが去った後、ヴァルゼンはベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめた。
殲滅しろ。殺すな。殲滅しろ。殺すな。
二つの声が、ぐるぐると回っている。
(どっちの味方もできない。どっちの敵にもなれない。僕は魔族だけど、人間の仲間として暮らしていて、魔王の名前を持っているけど、魔王らしいことは何一つできない)
板挟み。
その言葉が、これほど重いとは思わなかった。
(でも——殺したくないっていう気持ちだけは、本当だ。嘘じゃない。僕にできることがあるなら——)
顔をしかめた。胃が、また痛んだからだ。
しかしその表情を、廊下からそっと覗いていたミラベルは、こう解釈した。
「……あの方は、同胞の痛みを我が事として感じておられるのですね」
隣にいたエルヴィンが、重く頷いた。
「ああ。あの表情は——背負っているものの重さだ。俺たちにできることを、考えよう」
(僕が背負っているのは胃痛だ)
そのことを、ヴァルゼンは永遠に訂正できないのだった。




