全面戦争まで、あと三日
全面戦争まで、あと三日
翌朝、状況はさらに悪化していた。
前線での小競り合いが五件に増え、双方合わせて負傷者は二十名を超えた。死者こそ出ていないが、それは時間の問題だとフェリクスは分析した。
「偶発的な衝突が全面戦争に発展するまでの猶予は——最悪の場合、三日です」
フェリクスが地図上に時間軸を書き込みながら言った。
「最良の場合で一週間。しかし現場の将兵の緊張度を考えると、三日が現実的なラインでしょう」
三日。
たった三日で、何千人もの命が失われる戦争が始まるかもしれない。
ヴァルゼンは宿の窓から東の空を見た。朝日が昇っている。穏やかな朝だ。この空の下で、双方の兵士たちが剣を握り、死の覚悟を固めている。そう考えると、朝日の美しさが——残酷に見えた。
(この空は、今日も明日も変わらない。戦争が始まっても、空は晴れるんだろうな)
ヴァルゼンの胃は、もはや常に痛んでいた。痛みが日常になりつつあった。
「ザガン。胃薬を——」
「はい。こちらに」
ザガンが差し出した小瓶を受け取り、薬を口に放り込んだ。苦い粉末が舌に広がる。
エルヴィンがそれを見て、明るく言った。
「おっ、戦前の準備は万端だな! 体調管理も大事だぞ!」
(戦前の準備じゃない。ストレスで胃が壊れかけてるだけだ)
だが突っ込む気力もなかった。
午前中は情報の整理に費やされた。ザガンがベリオスについて語り、フェリクスが戦力分析を行い、グリゼルダが戦場の地形を検討した。
ヴァルゼンはその全てを聞いていた。理解できない部分も多かったが——一つだけ、確信したことがあった。
(正面衝突したら、どちらが勝っても大量の死者が出る。それだけは——絶対に避けなければならない)
昼食の時間。
ヴァルゼンは食堂で、いつもより長い時間をかけて食事をした。食欲はなかった。だが食べなければ体がもたない。無理やりパンを押し込み、スープをすすった。
ミラベルが向かいに座り、静かに紅茶を注いでくれた。
「ヴァルゼン様。——あまり、お一人で考え込まないでくださいね」
「うん……ありがとう」
「何かお手伝いできることがあれば、何でも言ってください」
(手伝い。ミラベルさんに手伝ってもらえることが、あるだろうか。——ある。一つだけ)
「ミラベルさん。一つ聞いていい?」
「はい」
「人を——怒っている人を、落ち着かせるには、どうすればいいと思う?」
ミラベルは少し考えた。
「相手の怒りの、本当の理由を聞くことだと思います。怒っている人は——たいてい、怒りたくて怒っているのではなくて。何かを恐れていたり、悲しんでいたり。その奥にある気持ちに、耳を傾けること」
ヴァルゼンは頷いた。
(ベリオスの怒りの奥にあるもの。先代魔王への忠義。魔族の未来への不安。——それを、聞くことができたら)
「ありがとう、ミラベルさん。すごく参考になった」
ミラベルが嬉しそうに微笑んだ。
「お役に立てたなら、嬉しいです」
(参考にはなった。でも、それを実行する勇気が僕にあるかどうかは——別の話だ)
午後。
新たな報告が届いた。
「前線の小競り合いで、初めて重傷者が出ました。人間側の兵士一名が、腕を失いました」
ヴァルゼンの手が、テーブルの上で震えた。
(腕を。失った。まだ戦争は始まっていないのに。小競り合いだけで——)
「前線の兵士たちは限界です。恐怖と怒りで判断力が鈍っている。このままでは、現場の指揮官が独断で攻撃命令を出す可能性があります」
フェリクスの声は冷静だったが、その目には焦りがあった。
「三日。これが本当にタイムリミットです」
エルヴィンが拳を握った。
「ヴァルゼン。お前はまだ、何か考えてるんだろう」
「……考えてる。考えてはいる。でも——」
「でも?」
「すごく怖い考えだ」
エルヴィンが、にっと笑った。
「怖い考えほど、だいたい正解だ」
(それは勇者の発想だよ、エルヴィン。臆病者にとって、怖い考えは——ただ怖いだけだ)
夕方。
ヴァルゼンは窓際に立ち、東の空を見ていた。
あの向こうに、ベリオスがいる。三万の兵を率いて、偽魔王の首を求めている男。
(話がしたい)
その思いが、ふっと浮かんだ。
(あの人と——話がしたい。怒りの理由を聞きたい。恐れていることを知りたい。それだけで何かが変わるとは限らないけど——でも、何もしないよりは)
拳を握った。
震えていた。
(怖い。めちゃくちゃ怖い。でも——戦争で人が死ぬ方が、もっと怖い)
夕食の席で、エルヴィンが胃薬を飲むヴァルゼンを見て言った。
「おっ、戦前の準備は万端だな! 体調管理は兵法の基本だぞ!」
(……今朝も同じことを言っていた。エルヴィンの辞書に「胃薬=ストレス」という項目は永遠に追加されないのだろう)
グリゼルダが黙々と剣を研いでいた。研ぐ音が、静かな食堂に響いていた。
フェリクスが地図を広げ、等高線を指でなぞっていた。何かの計算をしている。
ミラベルが紅茶を淹れてくれた。三杯目だった。
ザガンは窓際で、東の空を見つめていた。
全員が——それぞれの仕方で、来たるべき時に備えている。
ヴァルゼンだけが、まだ答えを持っていなかった。
だが——一つだけ、わかったことがある。
(あの人たちと——話がしたい。ベリオスの兵士たちと。戦いたくない人たちと。怖がっている人たちと。——僕と同じように、怖がっている人たちと)
全面戦争まで、あと三日。
ヴァルゼンの中で、何かが——ゆっくりと、形を取り始めていた。




