ベリオスの剣、国境に立つ
ベリオスの剣、国境に立つ
偵察部隊からの報告は、時間を追うごとに深刻さを増していた。
ザガンが地図の上に石を並べていく。赤い石がベリオスの軍勢、青い石が人類連合の防衛線。赤が圧倒的に多かった。
「陛下。前線で小競り合いが発生しました」
「小競り合い?」
「ベリオス軍の偵察部隊と、我が方の哨戒部隊が接触。短い戦闘の後、双方が撤退。死者はなし。ただし——」
「ただし?」
「ベリオス軍の偵察部隊は、明らかに挑発目的で前進していました。本隊を動かす前に、こちらの反応を見ている」
ヴァルゼンは地図を見つめた。赤い石と青い石の間の距離が、日に日に縮まっている。
(あと三日。三日で全面戦争。三日で——何ができるんだ)
胃が痛い。昨日から痛みっぱなしだ。
フェリクスが新たな報告書を持ってきた。
「ベリオスの布陣が確認できました。前線に『鉄壁陣形』——先代魔王時代の防御陣形を展開しています。この陣形は、攻撃よりも守りに秀でる。つまりベリオスは、こちらから攻めてくるのを待っている」
「待ってる……」
「はい。先に手を出した方が不利になる。魔王殿が軍議で仰った通りです」
(僕は何も仰ってない。「ちょっと」しか言ってない)
グリゼルダが窓際で腕を組んでいた。
「ベリオスは武人だ。自分から仕掛けるより、迎え撃つ方を好む。鉄壁の異名は伊達ではない」
「詳しいんですね、グリゼルダさん」
「大戦で直接対峙したことがある。——私の師匠が、ベリオスとの一騎打ちで命を落とした」
ヴァルゼンは息を呑んだ。
「す、すみません。辛いことを——」
「いいえ。師匠は本望だったと思います。あれほどの武人と刃を交えられたのだから。——だからこそ、ベリオスの強さは身に染みている。正面から挑むのは愚策です」
(正面からは挑めない。横からも後ろからも挑めない。僕には挑む力がそもそもない)
エルヴィンが拳を握った。
「三日あれば十分だ。ヴァルゼンなら——何か思いつく」
(思いつかない。何も。でも——エルヴィンの目が眩しすぎて、「無理」とは言えない)
午後、ザガンが追加の報告を持ってきた。
「陛下。小競り合いがエスカレートしています。双方の哨戒部隊が三度接触し、今度は負傷者が出ました」
「負傷者……」
「こちら側二名、向こう側三名。命に別状はありませんが——このペースでは、偶発的な全面衝突も時間の問題です」
ヴァルゼンの表情が曇った。
戦況報告を聞くたびに、胃の痛みが増す。昨日より今日の方が痛い。明日はもっと痛くなるだろう。
(戦争が近づいている。数字として。負傷者の数として。現実が、僕に迫ってくる)
エルヴィンがそれを見て——いつもの明るさを、あえて取り戻した。
「ヴァルゼン。暗い顔をするな。まだ三日ある。三日あれば——お前なら、何か思いつく」
「何も思いつかないんですけど……」
「思いつかないなら、思いつくまで考えればいい。俺はお前の考える時間を守る。それが俺の仕事だ」
(エルヴィンは、いつもこうだ。根拠のない信頼を向けてくる。それが——嬉しくて、同時に重い)
夕方。
ヴァルゼンは宿の屋上に一人で上がった。王都の東側が見渡せる場所だった。
夕日に照らされた東の空は赤かった。
その赤が、戦場の炎に見えた。
(ベリオスという人は、怖い人なんだろう。強い人なんだろう。でも——ザガンが言っていた。「誰よりも魔族の未来を案じている人」だと)
ヴァルゼンは手すりに肘をついた。
(僕は偽物の魔王だ。ベリオスが怒るのは正しい。僕に魔王の資格なんてない。でも——)
でも。
(僕が何もしなかったら、人が死ぬ。人間も。魔族も)
胃の痛みが、一瞬だけ消えた。
代わりに——胸の奥で、何かが動いた。恐怖とは違う、もっと深い場所にある何か。
(できることは——何だ)
まだ答えは見えない。
だが、考えることをやめてはいけない。それだけは、わかった。
屋上の扉が開いた。
「陛下」
ザガンだった。手に湯気の立つカップを持っている。
「胃薬を溶かしたお湯です」
「……ありがとう、ザガン」
受け取って一口飲んだ。苦かった。
「陛下。ベリオス将軍は——恐ろしい敵です。しかし、話の通じない相手ではありません」
「話が——通じる?」
「信念のある男です。信念があるということは——その信念に触れることができれば、対話の余地がある」
ヴァルゼンはザガンの顔を見た。
元魔王軍参謀の目には、かつての同僚への——複雑な感情が浮かんでいた。
「ザガン。ベリオスのことを、もっと教えてほしい」
「……承知しました」
ザガンが語り始めた。
「ベリオス将軍は、元は辺境の魔族の村の出身です。幼い頃に人間の討伐隊に村を焼かれ、先代魔王に拾われた。先代に命を救われ、剣を教えられ——先代のために生きることが、あの男の全てでした」
「先代魔王のために……」
「先代が倒れた後、ベリオスは大戦の終結を受け入れませんでした。先代の遺志は人類との共存ではなく、魔族の覇権にあると——そう信じている」
(それは——悲しい話だ。怒っているんじゃなくて。悲しんでいるんだ。大切な人を失った悲しみが、怒りに変わっている)
「ザガン。ベリオスは——話の通じる人?」
「信念のある男です。信念があるということは、その信念に触れることができれば——対話の余地がある。ただし」
「ただし?」
「力のない者の言葉を、あの男は聞きません。力こそが言葉——それが、ベリオスの世界観です」
(力のない者の言葉。つまり——僕の言葉は聞いてもらえない。僕は最弱だから)
胃薬を飲み干した。苦かった。
夕日が沈んでいく。
東の空が、暗くなっていく。
あの闇の向こうに——三万の兵と、一人の将軍が待っている。
全面戦争まで、あと三日。
ヴァルゼンの手の中で、空になったカップが、夜風に冷えていった。




