全面戦争まで、あと三日。
全面戦争まで、あと三日。
軍議の結果は、瞬く間に王都中を駆け巡った。
「防衛に徹し、情報収集を優先する」——ヴァルゼンの一言(正確にはくしゃみと「ちょっと」)が生み出した方針は、王城の伝令網を通じて各地の駐屯軍に伝達された。人類連合の全軍が、臨戦態勢に入りつつある。
ヴァルゼンは宿の部屋で、毛布を頭まで被っていた。
(怖い。怖い怖い怖い。三万だぞ。三万の魔族が僕を殺しに来るんだぞ。しかも率いてるのは先代魔王の右腕。正真正銘の化け物だ)
膝を抱えて丸くなっていると、ノックの音がした。
「ヴァルゼン様、お茶をお持ちしました」
ミラベルの声だった。断る理由もないので、毛布から顔だけ出した。
「あ、ありがとう……」
ミラベルが部屋に入り、テーブルにカップを置いた。温かい湯気が立ち上る。カモミールの甘い香りが鼻をくすぐった。
「お顔の色が悪いです。昨夜から、あまりお眠りになれていないのでは」
「大丈夫。ちょっと——考え事をしていただけで」
「軍議でのお姿、立派でした」
(くしゃみして「ちょっと」って言っただけなのに、なんで立派なんだ)
ミラベルが椅子に座り、両手を膝の上で組んだ。いつもの穏やかな微笑みだったが、その手がかすかに震えていた。
「あの——ミラベルさんも、怖いですか」
訊いてから、しまった、と思った。不安にさせるようなことを言ってどうする。
だがミラベルは、ゆっくりと頷いた。
「はい。怖いです」
正直な答えだった。
「でも——ヴァルゼン様が一番怖いはずなのに、あの場で逃げなかった。それだけで、わたくしは勇気をいただきました」
(逃げたかった。心の底から逃げたかった。足が動かなかっただけだ。恐怖で)
「ミラベルさん」
「はい」
「……お茶、美味しいです」
ミラベルが微笑んだ。少しだけ、手の震えが収まったように見えた。
夕刻。
パーティが食堂に集まった。正式な作戦会議ではなく、夕食のはずだった。宿の女将が気を利かせたのか、普段より品数が多い。煮込み料理に焼きたてのパン、蒸し野菜の盛り合わせ。温かい食事の匂いが食堂を満たしている。
だが——テーブルの上の料理には、誰も手をつけていなかった。
ヴァルゼンはちらりと全員の顔を見回した。エルヴィンは珍しく黙り込み、グリゼルダは剣の柄を握ったまま、フェリクスは手帳を睨んでいる。ミラベルだけが、全員の皿に取り分けをしていた。誰も食べていないのに。
エルヴィンが先に口を開いた。
「偵察部隊からの続報だ。ベリオスの軍勢は東部辺境の丘陵地帯に陣を構えた。移動の気配はない。——待ちの姿勢だ」
「鉄壁陣形ですね」
フェリクスが地図を広げた。石を並べて、敵味方の配置を示す。赤い石がベリオス軍。青い石が人類連合の防衛線。赤が、圧倒的に多かった。
(石の数が現実の人数を表しているなら、この赤い石一個が千人。つまり三十個で三万人。青は——十二個。一万二千。数で負けてる。普通に負けてる)
「守りに徹すればこちらにも勝機はある。が——問題は時間だ」
グリゼルダがスープの皿を脇に押しやり、地図に身を乗り出した。
「ベリオスの『鉄壁陣形』は持久戦に強い。補給線が安定している限り、何ヶ月でも持ちこたえる。そして——我々の補給線は、三ヶ月が限界だ」
「三ヶ月……」
「はい。つまり、長期戦になればこちらが干上がる。短期決戦を挑めば——三万の精鋭が待ち構える陣地に正面から突っ込むことになる」
どちらも地獄だ。
ヴァルゼンは胃を押さえた。夕食の匂いが急に重くなった。
「ヴァルゼン殿」
フェリクスがモノクルを押し上げた。
「三日後——正確には六十八時間後に、前線の哨戒部隊同士が本格的に接触する可能性が高い。偵察部隊の報告では、双方の間合いが日に日に縮まっている」
「偶発的な衝突が起きれば、それが全面戦争の引き金になる」
ザガンが補足した。
「カウントダウンは始まっています。六十八時間。——それが、我々に残された猶予です」
六十八時間。
約三日。
三日で、何ができる。
(何もできない。僕には何もできない。軍を率いる力もない。戦略を立てる頭もない。剣も振れない。魔法も使えない。僕にあるのは——)
何だ。僕にあるものなんて、何もないじゃないか。
「ヴァルゼン」
エルヴィンが、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「三日ある」
「……うん」
「三日あれば——お前なら、何か思いつく」
(思いつかない。本当に思いつかない。でも——この目を見ると、「無理です」とは言えない)
「……考えます」
それだけ言うのが精一杯だった。
エルヴィンが満足げに頷いた。グリゼルダが「三日あれば武器の手入れは十分だ」と呟き、フェリクスが情報収集の強化を提案し、ミラベルが治癒魔法の薬材を買い足しに行くと立ち上がった。
全員が動き始めた。それぞれの持ち場で、それぞれにできることを。
ヴァルゼンだけが——テーブルに座ったまま、動けなかった。
冷めたスープの表面に、自分の顔が映っている。怯えた紫の瞳。魔王の名に値しない、臆病者の顔。
(三日。三日で——何かを見つけなきゃいけない。逃げ道でもいい。抜け道でもいい。誰も死なずに済む方法を。あるのか、そんなもの)
ザガンが、そっとスープの皿を温め直して戻してきた。
「陛下。まず、召し上がってください。空腹では思考も鈍ります」
「……うん」
スプーンを口に運んだ。味は——よくわからなかった。でも、温かかった。
窓の外で、東の空に星が瞬いていた。
あの星の下に、三万の兵がいる。その一人一人に、家族がいて、帰る場所がある。
ヴァルゼンはまだ、それを知らなかった。
知るのは——もう少し先のことだ。
全面戦争まで、あと三日。
カウントダウンは、止まらない。




