冒険者カードは、ヴァルゼンの上着の内ポケットに収まっていた。
冒険者カードは、ヴァルゼンの上着の内ポケットに収まっていた。
職業:魔王。
その四文字が胸元で存在を主張するたびに、ヴァルゼンの胃がきゅっと縮んだ。
(合ってるけど、そういう意味じゃない。僕は確かに魔王だけど、ギルドが想定している『魔王』は僕じゃない。ギルドが思っている魔王は、たぶん大陸を滅ぼせるような存在で、僕はゴブリンにも勝てない存在だ。この差をどう埋めろというんだ)
だがそんな悩みを口にする余裕は、今のヴァルゼンにはなかった。
宿の自室に戻ると、ザガンが紅茶を用意して待っていた。いつもより少しだけ背筋が緩んでいるのは、信頼の証なのか、単に疲れているのか。
「陛下。本日はゆっくりお休みください」
「あ、ありがとう、ザガン。今日は本当に疲れた……」
ヴァルゼンは椅子に沈み込んだ。冒険者ギルドでの騒動は、想像の五倍くらい疲れる出来事だった。
紅茶を一口すすった。
温かかった。ザガンの淹れる紅茶は、いつも完璧な温度だった。
「……ザガン」
「はい」
「前から聞きたかったんだけど」
ヴァルゼンは湯気の向こうにザガンの顔を見た。元魔王軍参謀。先代魔王に仕え、大戦を生き延び、今はヴァルゼンの従者として同行している男。この男のことを、ヴァルゼンは実はあまりよく知らなかった。
「先代魔王って、どんな人だったの」
ザガンの手が止まった。
紅茶のポットを持ち上げかけた姿勢のまま、一瞬だけ——本当に一瞬だけ、彼の表情が揺らいだ。
「……何故、今それを」
「いや、特に深い意味はなくて。冒険者カードに『魔王』って書かれちゃったから、なんとなく。先代はきっと、もっとちゃんとした魔王だったんだろうなって」
ザガンはポットをテーブルに置いた。
長い沈黙があった。
窓の外で夜風が木の葉を揺らしている。
「……先代魔王は」
ザガンが口を開いた。
「力の権化と呼ばれ、大陸中に恐怖を振りまいた。人類は先代を『災厄』と呼び、魔族は先代を『覇王』と呼びました」
「うん。それは僕も聞いたことがある」
「ですが」
ザガンの声が、わずかに低くなった。
「先代魔王は——魔力循環の守護者でした」
ヴァルゼンは首を傾げた。
「守護者って、何?」
ザガンが、また黙った。
今度の沈黙は、先ほどより長かった。ヴァルゼンはその沈黙の中に、言葉にならない何かが渦巻いているのを感じた。
「……先代は、戦うために戦っていたのではありません」
ザガンはそう言った。まるで、長い間封をしていた箱を開けるように。
「世界には——魔力の流れがあります。大地を巡り、空を渡り、すべての生命を繋ぐ流れです。先代はその流れを守るために戦っていた。少なくとも、私はそう理解しておりました」
「えっと……つまり、先代魔王は世界を滅ぼそうとしてたんじゃなくて、守ろうとしてたってこと?」
「それ以上は、今の私にはお答えできません。先代は多くを語らぬ方でした。ただ——」
ザガンはヴァルゼンの目を見た。
「陛下が今、同じ問いを発されたことに、私は深い意味を感じております」
(深い意味なんてない。ただの好奇心だ。でもザガンの目が怖い。あの目は何かを確信している目だ。何を確信しているのかは知りたくない)
「あ、あの、ザガン。僕はただ聞いてみただけで——」
「ご謙遜を」
(謙遜じゃない)
「陛下は全てご承知の上で、私が自ら語るのを待っておられたのでしょう。……やはり、この方は」
ザガンが最後の言葉を飲み込んだ。
ヴァルゼンは紅茶をもう一口すすった。すする以外にできることがなかった。
(守護者。先代魔王が、守護者。そんな重大な話を聞いてしまった気がする。でも正直、よくわからない。魔力循環って何だ。守護者って具体的に何をするんだ。聞きたいけど、聞いたらザガンがまた「全てご承知で」って言いそうだし、聞かなかったらこの話は永遠に謎のままだし、どっちに転んでも僕は損をする)
その夜、ヴァルゼンが床についた後。
書庫では、フェリクスが燭台の光を頼りに古い記録をめくっていた。
王都の大書庫には、大戦期の軍事記録が膨大に残されていた。戦場の位置、兵力の配置、損耗率、補給路——フェリクスはそれらを一つ一つ突き合わせ、地図上に点を打っていた。
「……妙だな」
フェリクスのモノクルの奥で、碧い瞳が鋭く光った。
大戦の激戦地を結ぶ線と、近年報告されている空間の歪み——いわゆる虚淵の発生地を結ぶ線が、重なっていた。
偶然にしては一致しすぎている。
フェリクスは羊皮紙に走り書きをした。
「激戦地と虚淵の発生地が一致する。因果か、相関か。まだ断定はできない。だが——」
羽根ペンが止まった。
「魔王殿がかつて虚淵の予兆を感知したという事実と合わせると、一つの仮説が成り立つ」
フェリクスは記録を閉じ、椅子の背にもたれた。
深い溜息をついた。
「……この仮説が正しければ、魔王殿はやはり常人の理解を超えた存在だ。世界の傷を感じ取れるということは——」
そこで、フェリクスは思考を打ち切った。
仮説の段階で騒ぐのは賢者の流儀ではない。だが記録には残しておくべきだ。
羊皮紙の末尾に一文を加えた。
「虚淵と大戦の関連性。要継続調査。魔王殿の感知能力が鍵となる可能性あり」
燭台の炎が揺れた。
書庫に静寂が戻った。
ヴァルゼンは、自分の寝室でぐっすり眠っていた。守護者の意味も、虚淵の謎も、明日にはきっと忘れているだろう。
(……zzz)
世界の謎を抱えた夜は、こうして静かに更けていった。




