魔王は敬語で話す
魔王は敬語で話す
冒険者ギルド本部のロビーは、いつもとは違う空気に包まれていた。
ランク会議が紛糾している間、ヴァルゼンは「お好きにお過ごしください」と言われてロビーに放り出された。正確に言えば、会議の結論が出るまで待っていてほしいとのことだった。
(あの会議、僕のことを話し合ってるんだよな。僕がいない場所で。僕の知らない功績を列挙して。聞いたら卒倒する内容を真剣に議論して)
胃が痛い。いつものことだ。
ロビーには冒険者たちがいた。朝の依頼受付の時間帯で、カウンターの前に列ができている。掲示板に貼られた依頼書を眺める者、仲間と装備の手入れをしている者、酒場スペースで朝食をとっている者。
ヴァルゼンは端の椅子に座り、できるだけ目立たないようにしていた。
無理だった。
今日の彼は、エルヴィンに「ギルドに行くなら正装で」と言われ、黒いローブ——魔王時代のものを繕った例のやつ——を着せられていた。額の小さな角が前髪から覗いている。どう見ても「あの魔王」だった。
「お、おい……あれ……」
「嘘だろ。本物か?」
「最凶の魔王ヴァルゼンだ……なんでギルドのロビーに……」
ざわめきが広がった。
ヴァルゼンは縮こまった。椅子の上で小さくなり、ローブのフードを引っ張り上げようとしたが、グリゼルダに「失礼にあたります」と止められた。
(目立ちたくない。ただそれだけなのに。なんで僕が座ってるだけで騒ぎになるんだ)
一人の冒険者が近づいてきた。
革鎧を着た壮年の男で、腰に長剣を佩いている。顔に古傷があり、歴戦の冒険者であることは一目でわかった。A級か、それに近い実力者だろう。
「あんたが——魔王殿か」
声は低く、威圧的だった。
ヴァルゼンの心拍数が跳ね上がった。
(怖い。この人怖い。冒険者の人って皆こんなに怖い顔してるの?)
「は、はい。あの、ヴァルゼンです。よ、よろしくお願いします」
反射的に立ち上がり、頭を下げた。
冒険者の男が、固まった。
「……今、敬語で話したか?」
「え? あ、はい。初対面の方には敬語が基本かなと思いまして……」
「お前、最凶の魔王だろう」
「い、一応そういうことになってますが——」
「なってるなら——なんで俺みたいなA級ごときに敬語なんだ」
ヴァルゼンは困った。困ったが、正直に答えた。
「だって、初めてお会いした方ですし。あなたが何級でも、それは関係ないんじゃないでしょうか。人として、礼儀正しくありたいなって」
沈黙が落ちた。
冒険者の男の目が——揺れた。
「……すまねぇ。偉そうな態度で声かけちまって」
「いえ、全然偉そうじゃないですよ。むしろ話しかけてくださって嬉しいです」
男が、がりがりと頭を掻いた。顔が赤い。
「お、俺はダグラスってんだ。よろしく頼む。——敬語じゃなくていい。いや、こっちが敬語を使うべきか」
「いやいや、普通に話してください。僕の方こそよろしくお願いします、ダグラスさん」
ダグラスが去った後、周囲の冒険者たちの目が変わっていた。
恐怖や警戒ではなく——困惑と、奇妙な親しみが混じった目。
別の冒険者が近づいてきた。若い女の弓使いだった。
「あ、あの、魔王殿。サインとかって——」
「サイン? あ、はい、どうぞ。何に書けばいいですか?」
「こ、この依頼書の裏に——って、いいんですか? 本当に?」
「ええ、もちろん。……あ、字が下手ですみません」
「下手じゃないです! ありがとうございます!」
女弓使いが宝物のように依頼書を抱えて去っていった。
その光景を見て、他の冒険者たちも次々と集まってきた。ヴァルゼンは一人一人に丁寧に応対した。敬語で。笑顔で。名前を聞いて、覚えようとして。
「すごいですね。B級なんですか? 僕にはとても真似できません」
「その剣、素敵ですね。長く使っておられるんですか?」
「治癒魔法の使い手なんですか。すごいな、僕は魔法がてんで駄目で……」
(嘘は言ってない。全部本心だ。冒険者の人たちは、本当にすごいと思う。僕よりずっと強くて、ずっと勇敢だ)
一時間後。
ヴァルゼンの周りには、二十人以上の冒険者が輪を作っていた。全員が、最凶の魔王と和やかに談笑している——異様な光景だった。
エルヴィンが観覧席の壁に寄りかかり、満足そうに腕を組んでいた。
「見ろよ、フェリクス。あの人懐っこさ。魔王だぜ? 信じられるか?」
フェリクスが手帳に書き込んでいた。
「強者の余裕です。自分の圧倒的な力を自覚しているからこそ、誰に対しても謙虚でいられる。冒険者たちは——その器の大きさに、無意識に恐縮しているのです」
(器じゃない。本当に弱いから敬語なんだ。あの人たち全員、僕より強いんだ。敬語は当然だ)
グリゼルダが静かに呟いた。
「最凶の魔王が、腰が低い。それがどれほど恐ろしいことか——冒険者たちはまだ気づいていまい」
ミラベルが微笑んだ。
「ヴァルゼン様は、どなたにも平等に優しいですね。それが——あの方の本質なんだと思います」
(ミラベルさんだけ、方向性は合ってる気がする。でも「本質」って言われると、なんか違う気もする。僕はただ、怒られたくないだけなんだ)
ロビーの喧騒の中で、ヴァルゼンは冒険者たちとの会話を楽しんでいた。
楽しんでいた——のだ。本当に。
王宮の貴族たちとの社交は胃が痛くなるだけだったが、冒険者たちとの雑談は不思議と心地よかった。飾らない人たちだった。率直で、荒っぽくて、でも嘘がない。
(この人たちの方が、僕には合ってるのかもしれない。……いや、合ってると思ったら、また誤解が広がるだけか)
会議室の扉が開いた。
ギルドマスター・ドランクスが顔を出した。
「ヴァルゼン殿。会議がまとまりました。——少々、お時間をいただけますか」
冒険者たちが道を開けた。全員が自然と一歩引き、ヴァルゼンの通る道を作った。
誰に言われたわけでもなく。
最凶の魔王への——敬意が、そこにあった。
(何もしてないのに。敬語で話しただけなのに)
ヴァルゼンは小さく頭を下げ、会議室に向かった。
ロビーに残された冒険者たちの間で、一つの言葉が囁かれていた。
「あの魔王、腰が低いぞ」
「腰が低い魔王って、逆に怖くないか?」
「怖い。めちゃくちゃ怖い。強者の余裕ってやつだ」
誤解の連鎖は、止まらなかった。




