排除派が沈黙した日
排除派が沈黙した日
暗殺未遂事件の顛末は、ヴァルゼンの預かり知らぬところで王都中に広まっていた。
いや、「広まっていた」という表現は生ぬるい。爆発的に拡散した、というべきだろう。何しろ話の内容が劇的すぎた。
曰く——魔王の寝室に侵入した暗殺者が、魔王の前に跪いて号泣した。
曰く——魔王は刃を向けた相手を責めるどころか、その境遇に涙を流して同情した。
曰く——暗殺者は改心し、自ら排除派の依頼主を当局に告発した。
すべて事実である。だが、事実にはそれぞれ裏がある。
跪いて号泣したのは、ヴァルゼンが先に「殺さないでください」と懇願したせいで暗殺者が混乱したからだ。涙を流して同情したのは、怯えすぎて感情の制御が利かなくなっていただけだ。そして暗殺者が改心したのは——まあ、これだけは純粋に、ヴァルゼンの善良さによるものだった。
しかし王都の民にそんな裏事情は伝わらない。
「聖性の証だ!」
聖魔教の教主テオバルドが、大神殿前の広場で高らかに宣言した。
「暗殺者の刃は魔王様に届かず、その魂こそが浄化された! これぞ聖魔の奇跡——邪悪すら光に変える、我らが御方の聖性の証に他ならない!」
集まった信徒たちの歓声が、広場を揺るがした。
一方、排除派は壊滅的な打撃を受けていた。暗殺を指示した幹部二名が逮捕され、組織の求心力は一夜にして地に落ちた。「魔王は危険な存在だ」と主張してきた彼らが、その魔王の暗殺に失敗し、しかも暗殺者に改心されるという喜劇的な結末——排除派の残党たちは沈黙するしかなかった。
(僕はただ怖くて泣いただけなのに……)
ヴァルゼンは宿の部屋で、布団を頭から被ったまま呻いていた。暗殺未遂のショックから三日が経つが、まだ心臓がびくびくしている。
「陛下。そろそろ起き上がられては」
ザガンの声が扉越しに聞こえた。
「……もう少しだけ」
「三日目です」
「……もう少しだけ」
廊下で、ミラベルとフェリクスが小声で話しているのが聞こえた。
「暗殺者の魂を浄化した反動でしょう。あれほどの聖性を発揮されたのです。心身の消耗は計り知れません」
ミラベルの声だ。
(違う。ショックで布団から出られないだけだ。浄化なんてしてない)
「興味深い。聖なる行為に反動がある、という仮説は宗教学的にも前例がある。記録しておこう」
フェリクスの声だ。
(記録しないでくれ頼むから)
四日目の午後、ようやくヴァルゼンは布団から這い出した。正確には、エルヴィンが「散歩に行こう」と半ば強引に連れ出したのだ。
「外の空気を吸えば気分も変わる。な?」
エルヴィンの笑顔は相変わらず眩しかった。断れるはずもない。
王都近郊の丘陵地帯を歩いた。春の陽光が柔らかく、風が草原を撫でていた。平和な光景だ。ヴァルゼンの強張った肩が、少しずつ下がっていく。
——その時だった。
(……ん?)
足が止まった。
胸の奥で、何かが——ちくり、と刺した。
痛みではない。不快感ともちょっと違う。もっと原始的な、本能的な警鐘。空気の中に混じる、微かな違和感。魔力の流れが——ほんの僅かだが——淀んでいる。
(なんだろう、この感じ。嫌な感じがする)
「ヴァルゼン殿? どうした?」
エルヴィンが振り返った。
「い、いえ、その……あの丘の向こうに、村がありますよね?」
「ああ、マロスカ村だな。農村だが」
「あの辺りの人たち、ちょっと……避難させた方がいいかもしれません」
エルヴィンが目を細めた。
「——理由を聞いても?」
「わ、わかりません。ただ、なんとなく——嫌な感じがするというか——」
(根拠がない。完全に直感だ。こんなこと言って馬鹿にされるに決まって——)
「わかった」
エルヴィンが即答した。
「え?」
「お前の感覚を疑う理由がない。すぐに手配する」
エルヴィンの行動は素早かった。王都駐留軍に連絡を取り、マロスカ村の住民を一時避難させた。
翌朝——その丘陵で、地面に亀裂が走った。空間が歪み、黒い靄が噴き出した。虚淵の予兆だった。
住民に被害はなかった。
ヴァルゼンの「なんとなく嫌な感じ」が、数百人の命を救ったのだ。
フェリクスが手帳に書き込んだ。
「虚淵の発生を、事前に——それも半日以上前に感知した。この精度は、私の知る限り前例がない」
ヴァルゼンを見る目が、いつにも増して真剣だった。
「この感知能力は、他の誰にも代替できない。記録する」
(え、ちょっと、そんな大層な——本当にただの勘だったんだけど——)
しかしフェリクスの手帳に書かれた文字は、もう消せない。
王都に戻る道中、ヴァルゼンは空を見上げた。
(虚淵。あの黒い靄——あれは何なんだろう。僕が感じた「嫌な感じ」と、あの空間の歪みは、何か関係があるんだろうか)
答えは出ない。
ただ、胸の奥に残った違和感だけが、静かに疼いていた。




