ヴァルゼンは布団から出られなかった。
ヴァルゼンは布団から出られなかった。
暗殺未遂事件から一夜明けた朝。日差しは穏やかで、鳥が鳴いていて、平和な朝だった。
だが、ヴァルゼンの心は嵐の後の海だった。
(昨夜、殺されかけた。刃物を持った人間が、僕の寝室に入ってきた。あと一歩で死んでいた。死んでいたかもしれない。僕は——死ぬところだった)
布団を頭まで引き上げ、丸くなる。
手が震えている。恐怖が遅れてやってきたのだ。昨夜はカイルとの会話に集中していたから——というより、パニックで逆に冷静になっていたから——実感が薄かった。
一夜経って、現実が追いついてきた。
「怖い……」
小さく呟いた。
ノックの音がした。
「ヴァルゼン様、朝食の準備ができていますが——」
ミラベルの優しい声。
「……すみません、今日は、ちょっと……」
「具合が悪いのですか?」
「いえ、その、体は大丈夫なんですけど……」
言葉が続かなかった。「怖くて布団から出られない」とは、さすがに言えない。魔王が恐怖で引きこもっているなど、あまりにも情けなさすぎる。
ミラベルが静かにドアを開け、部屋に入ってきた。
「……やはり」
布団の塊と化したヴァルゼンを見て、ミラベルは悲しげに——だが、どこか納得したように呟いた。
「昨夜の件で、お体に障りが出たのですね」
「体は大丈夫なんです。本当に」
「心身は繋がっています。暗殺者の魂を浄化した反動で、心が消耗されたのでしょう」
(浄化。浄化って何。僕が何を浄化したって?)
「お茶を持ってきますね。ゆっくり休んでいてください」
ミラベルが部屋を出て行った。
しばらくして、廊下から声が聞こえた。パーティメンバーたちの話し声だ。
「ヴァルゼン殿が布団から出られないだと?」
エルヴィンの声。
「ええ。昨夜の暗殺者との対峙で、相当な気力を使われたようです」
ミラベルが説明する。
「フェリクスから聞いた。武力を一切使わず、対話だけで暗殺者を改心させたそうだな。……並の精神力でできることじゃない」
「あの暗殺者——カイルでしたか。今朝、目が覚めたら憑き物が落ちたような顔をしていましたよ」
フェリクスの声。
「邪を祓い、魂を浄化する。その代償として術者の心身が消耗される——聖典にそのような記述があります」
ミラベルが真剣に言った。
(聖典に書いてあるのか。僕が怖くて布団から出られないだけの現象に、聖典レベルの解釈がつくのか)
「ふむ」
グリゼルダの低い声。
「暗殺者を言葉だけで屈服させた上、その反動で動けなくなる。——魔王殿の戦い方は、我ら武人とは次元が違うな」
(次元は一緒です。方向が違うだけです。下方向に)
足音が遠ざかっていく。ヴァルゼンは布団の中で溜息をついた。
また、誤解が積み重なった。
昼過ぎ。ようやくヴァルゼンが布団から顔を出した頃、ザガンが報告に来た。
「カイルの身元を調べました。元傭兵。王都外れの療養所に妹がいるという話は事実です」
「やっぱり……本当だったんだ」
「ヴァルゼン陛下。この者の処遇をいかがなさいますか」
ザガンの声は淡々としていた。だが、その目は真剣だった。暗殺者への処分は、普通なら死罪か、良くて終身投獄だ。
「処遇って——」
「暗殺未遂は重罪です。しかし、判断は陛下に委ねます」
ヴァルゼンは少し考えて、言った。
「……妹さんの治療、なんとかなりませんか」
ザガンが微かに目を見開いた。表情に乏しいこの男が見せる、珍しい反応だった。
「治療を? 暗殺者の、肉親の?」
「カイルさんは妹さんのために仕方なくやったんです。罰を与えるより、妹さんが治る方がいいと思うんです。治ったら、もうこんな仕事をしなくて済むでしょうし」
ザガンが長い沈黙の後、深く頭を下げた。
「——御意。手配いたします」
その声には、いつもの無感情とは違う、微かな温度があった。
夕方。ヴァルゼンがようやく部屋から出て、食堂に顔を出した時のこと。
カイルがいた。
昨夜の暗殺装束ではなく、簡素な旅人の服を着ている。目元は腫れていた。泣いた痕だとすぐにわかった。
ヴァルゼンと目が合った瞬間、カイルが床に膝をついた。
「……ヴァルゼン、殿」
「あ、やめてください。立ってください」
「妹の治療を手配してくださったと聞きました。俺は——あなたを殺そうとしたのに——」
「だから、もういいんですってば」
ヴァルゼンが困った顔で手を差し出した。
「立ってください。ご飯、一緒に食べましょう。ミラベルさんのシチューが美味しいですよ」
カイルの目から、再び涙がこぼれた。
食堂では、エルヴィンが腕組みしてその光景を見ていた。
「見ろ、フェリクス。昨夜の暗殺者が、もう配下になっている」
「ええ。恐るべき支配力です。恐怖ではなく恩義で人を繋ぐ——歴史上の名君に通じるものがある」
(支配力じゃないし、配下にもしてないし、シチューを食べようって言っただけなんだけど)
グリゼルダが目を細めた。
「敵を味方に変える。これが魔王殿の戦い方か。剣よりも強い」
ミラベルが静かに手を合わせた。
「邪悪すら浄化する聖性。ヴァルゼン様は——やはり、特別なお方です」
(特別じゃないです。ただの最弱の魔王です)
ヴァルゼンはカイルの隣に座り、シチューの皿を受け取った。
「いただきます」
「……いただき、ます」
カイルがぎこちなく手を合わせた。
温かいシチューを啜りながら、ヴァルゼンはふと思った。
(怖かった。本当に怖かった。でも——カイルさんも、怖かったんだろうな。ずっと。僕なんかより、ずっと長い間)
その夜。ヴァルゼンは久しぶりに、ぐっすりと眠った。
一方——フェリクスは書斎で手記に記録していた。
『ヴァルゼン殿の魔力感知能力について。暗殺者の侵入を、護衛の結界よりも先に察知していた可能性がある。この感知精度は尋常ではない。記録に値する——他の誰にもできない芸当だ』
ペンを置き、窓の外を見る。
『なお、王都近郊の魔力観測所から気になる報告が上がっている。空間の歪みの痕跡が、かつての大戦の激戦地と一致するという相関——調査を続ける必要がある』
伏線は、静かに編まれ始めていた。




