深夜。
深夜。
ヴァルゼンは眠れなかった。当たり前だ。「暗殺されるかもしれない」と告げられて安眠できる人間がいたら、そいつはよほどの大物か、よほどのお人好しだろう。
ヴァルゼンは大物ではなかった。お人好しではあったが、それと安眠は別の話だ。
(寝返りが百二十回を超えた。数えてしまった自分が悲しい)
月明かりが、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
静かな夜だった。虫の声すら聞こえない。
静かすぎた。
(……ん?)
ヴァルゼンの体が、ぴくりと強張った。
理由はわからない。ただ、嫌な感じがした。肌がざわつくような、空気が僅かに冷たくなったような——言葉にできない違和感。
魔王の血統に宿る、微かな魔力感知。
本人は「なんとなく嫌な予感がする」程度にしか認識していない、その感覚が——今、はっきりと告げていた。
部屋の中に、自分以外の誰かがいる。
(え)
心臓が跳ねた。
ゆっくりと、布団の隙間から目だけを出す。
——いた。
窓際に、黒い影が立っていた。
月明かりに照らされた輪郭。フードを深く被り、右手に細い刃を握った人影。音もなく窓から侵入し、ベッドに向かって歩を進めている。
(暗殺者。本物の暗殺者。来た。本当に来た。嘘でしょ。フェリクスさんの言った通りだ。いやでも、こんなに早い!?)
体が動かない。恐怖で金縛りにあったように、指一本動かせない。
暗殺者が近づいてくる。一歩、また一歩。
あと三歩。
あと二歩。
刃が月光を反射して、銀色に光った。
その瞬間——ヴァルゼンの口が勝手に動いた。
「殺さないでくださいっ!」
絶叫だった。
裏返った声が、深夜の寝室に響き渡った。
暗殺者の足が止まった。
「……は?」
暗殺者が困惑の声を漏らした。それはそうだろう。標的は史上最凶と謳われる魔王だ。威圧的な反撃か、あるいは超越的な魔法の迎撃を想定していたはずだ。
まさか「殺さないでください」と叫ばれるとは思わなかっただろう。
「お願いします、殺さないでください! 僕、何でもしますから! いや、何でもはできないかもしれないけど、できる範囲のことは何でもしますから!」
ヴァルゼンは布団を握りしめたまま、涙目で訴えた。情けないことこの上ない光景だが、命がかかっているのだ。プライドなど犬にでも食わせればいい。
暗殺者が微動だにしない。フードの奥から、困惑した視線がヴァルゼンを見つめている。
「……おい。お前、本当に魔王か?」
低い声だった。男の声。若い。
「魔王です。魔王ですけど、弱いんです。本当に弱いんです。ゴブリンにも負けるくらい弱いんです」
「ゴブリンに負ける魔王がどこにいる」
「ここにいます!」
真剣だった。ヴァルゼンはこの瞬間、人生で最も真剣に自分の弱さを主張していた。
暗殺者が刃を下ろした。完全にではない。構えを解いただけだ。だが、即座に斬りかかる気配は消えていた。
「……聞いた話と違う」
「何を聞いたんですか」
「一睨みで兵士が気絶する。沈黙だけで国を動かす。訓練場を半壊させた。——そういう魔王だと」
(全部誤解だよ! 気絶させてないし、国を動かしてないし、訓練場を壊したのはザガンだし!)
「あのですね、それ全部——」
言いかけて、ヴァルゼンは口を噤んだ。
ここで「全部誤解です、僕は最弱です」と言ったところで、暗殺者は信じないだろう。いや、もし信じたとしたら——最弱の魔王なら殺しやすい、と判断するかもしれない。
どちらに転んでも詰みだ。
(どうする。どうすればいい。助けを呼ぶ? 叫べばザガンが来るかもしれない。でも、叫んだ瞬間に刺されるかもしれない。逃げる? 窓は暗殺者が塞いでいる。ドアまでの距離は——無理だ。間に合わない)
八方塞がり。
ヴァルゼンにできることは、一つだけだった。
話すこと。
「あなたは——どうして暗殺者なんかやってるんですか」
震える声で、ヴァルゼンは聞いた。
暗殺者が僅かに身じろぎした。
「……何だと?」
「いや、その、すみません。変なことを聞いて。でも、こんな危ない仕事を好き好んでやる人はいないと思って……」
沈黙。
長い沈黙の後、暗殺者が低く呟いた。
「……関係ない。俺の事情は、お前には関係ない」
「そうですよね。すみません」
ヴァルゼンは素直に謝った。
暗殺者が再び刃を上げた。
「終わりだ。覚悟しろ」
「待って、待ってください! あの——一つだけ。一つだけ聞かせてください」
「……何だ」
「報酬は、いくらですか」
暗殺者が面食らったように沈黙した。
「……金貨千枚だ」
「千枚……」
ヴァルゼンの表情が変わった。恐怖ではない。驚きでもない。
それは——同情だった。
「金貨千枚で、命を懸けるんですか。あなたの命も、僕の命も」
暗殺者の手が、微かに震えた。
「黙れ。お前に——お前に何がわかる」
「わかりません。でも、千枚の金貨のために命を懸けなきゃいけない事情があるんだろうなって、それだけは——わかります」
声は震えていた。膝も震えていた。怖くないはずがない。
それでもヴァルゼンの目は、暗殺者をまっすぐ見ていた。
月明かりの中で、二つの影が向かい合っていた。




