訓練場、半壊す
訓練場、半壊す
模擬戦は、二時間を超えていた。
精鋭二十名のうち、体力の限界で膝をついた者が六名。残り十四名も息が荒い。対するヴァルゼンは——もはや走っているのか歩いているのかわからない速度で、ふらふらと演習場を移動していた。
(もう無理。足が棒。肺が燃えてる。次に転んだら立ち上がれない。確実に立ち上がれない)
だが不思議なことに、精鋭たちはそのふらつきにこそ手を焼いていた。予測不能の極致だった。よろめく方向が毎回違う。つまずく角度が毎回違う。
参謀が額を押さえた。
「もはや人間の動きではない。いや、人間ではなかった。魔王だった」
(人間でも魔王でもない。ただの限界だ)
そのとき——訓練場の入口に、一つの影が現れた。
ザガンだった。
王都に残っていたはずのザガンが、使節団の帰還を出迎えた後、ヴァルゼンが模擬戦に参加していると聞いて駆けつけたのだ。
ザガンの目に映ったのは——ふらふらと演習場をさまよう主の姿と、それを追い回す武装した集団だった。
ザガンの表情が変わった。
普段の冷静な参謀の顔から——先代魔王に仕えた魔族の、戦士の顔に。
「何を——している」
低い声が、演習場に響いた。
精鋭たちの足が止まった。ザガンの放つ気配が尋常ではなかったからだ。
「陛下に——何をしている」
「ザ、ザガン、これは模擬戦で——」
「模擬戦?」
ザガンの声が、さらに低くなった。
「陛下がお一人で二十名を相手に二時間。これが模擬戦だと?」
ザガンの右手に、紫色の光が灯った。
魔力だ。元魔王軍参謀として、ザガンは一流の魔術師でもある。普段はその力を見せないが——主が危機にあると判断した今、自制する理由はなかった。
「ザガン! 待って! 模擬戦だから! 本当に模擬戦だから!」
ヴァルゼンが必死に叫んだ。
だがその声は——ザガンには届かなかった。
「主の邪魔をするな」
ザガンが右手を振った。
紫色の魔力弾が、演習場の壁に着弾した。
轟音が響いた。
石壁が——吹き飛んだ。
厚さ三十センチはある石造りの壁に、直径五メートルほどの大穴が開いた。瓦礫が飛散し、砂煙が舞い上がる。穴の向こうに、王都の青空が覗いていた。
演習場が、凍りついた。
精鋭たちは武器を取り落とした。観覧席の将軍たちは椅子から腰を浮かせた。貴族たちは言葉を失った。
ガルヴァスが、大穴を見つめていた。その目に、純粋な恐怖が浮かんでいた。
「あれは——従者の一撃だぞ」
副官が蒼白な顔で呟いた。
「はい。従者の、おそらく手加減した一撃です」
「手加減……」
「壁を狙っていました。人には当てていない。つまりあれでも威嚇射撃です」
ガルヴァスの喉が鳴った。
「あの従者が手加減してあの威力。では——主である魔王殿が本気を出したら」
「城が消し飛ぶでしょう」
沈黙が落ちた。
ヴァルゼンはザガンに駆け寄った。
「ザガン! 何やってるの! 壁壊しちゃ駄目でしょ!」
「申し訳ございません、陛下。つい」
「つい、じゃないよ! 弁償とか修理とかどうするの!」
「ご心配には及びません。後ほど修理費用を——」
「そういう問題じゃなくて!」
ヴァルゼンがザガンを叱っている。
観覧席から見ると——最凶の魔王が、壁を吹き飛ばした従者を「やりすぎだ」と諌めている図だった。
参謀が手帳に震える手で書き込んだ。
「従者ザガン。魔力推定——S級上位。主の危機に際して即座に行動。しかし主は攻撃の必要性を認めず、従者を制止。これは——主の器が従者を遥かに超えていることの証左。手加減でこの威力、本気を出されたら……」
筆が止まった。
書けなかった。想像が追いつかなかった。
ガルヴァスが立ち上がった。演習場に降りていく。その足取りは、先刻までの豪胆さが消え、どこかぎこちなかった。
「ヴァルゼン殿」
ガルヴァスが、模擬戦の中止を告げた。
「十分です。——いえ、十二分です」
精鋭たちが整列し、一斉に頭を下げた。
「本日の模擬戦、大変勉強になりました」
隊長格の兵士が声を張った。だがその声は、微かに震えていた。
「僕の方こそ、あの、ご迷惑をおかけして——壁のことは本当にすみません」
「いえ! 壁のことはお気になさらず! あれはむしろ——我々の訓練施設が脆弱だったということです!」
(壁の厚さ三十センチは脆弱じゃないと思うんだけど)
模擬戦は終わった。
結果は——精鋭二十名の攻撃が一発も当たらず、従者の一撃で訓練場の壁が半壊。
この結果だけを見れば、誰もがこう結論づけるだろう。
魔王ヴァルゼンは、手加減していた。
本気を出せば——城が消し飛ぶ。
エルヴィンが観覧席から飛び降りてきた。
「ヴァルゼン! 大丈夫か!」
「大丈夫……じゃない……足が……」
ミラベルが駆け寄り、治癒魔法を手に灯した。淡い光がヴァルゼンの疲労した足に染み込んでいく。
「筋肉が悲鳴を上げています。二時間も全力疾走されたのですから……」
「ありがとう、ミラベルさん……」
フェリクスが手帳を閉じ、静かに言った。
「模擬戦の結果をまとめます。精鋭二十名の攻撃——全弾回避。従者ザガンの介入——訓練場の壁を半壊。どちらの事実も、魔王の力を証明しています」
(証明してない。逃げただけと壁壊しただけだ)
「これで軍部は——もう二度と、魔王殿を試そうとは思わないでしょう」
(試さないでくれるなら、それはありがたい。二度とやりたくない。二度と走りたくない)
帰り道、ヴァルゼンはザガンに小声で言った。
「ザガン。あれは本当にやりすぎだよ」
「重ねてお詫び申し上げます。ですが陛下、あの場で力を見せなければ、軍部は今後もあなたを試し続けたでしょう」
「……それは、そうかもしれないけど」
「一度、圧倒的な力を見せることで、今後の不要な挑戦を封じる。——先代魔王も同じ手法を用いておられました」
(先代と同じにされても困る。先代は本物の力があったんだ。僕にはない。あるのはザガンの力だけだ)
だが——ザガンの判断が正しかったことは、翌日証明されることになる。
軍部から、同盟の申し出が届いたのだ。




