逃げる魔王は捕まらない
逃げる魔王は捕まらない
模擬戦が始まって——どれくらい経っただろう。
三十分か。一時間か。ヴァルゼンにはわからなかった。時間の感覚が、とうに飛んでいた。
確かなのは、まだ一発も当たっていないということだった。
「はぁ……はぁ……はぁっ……!」
ヴァルゼンは走っていた。全力で走っていた。訓練場の端から端まで、壁際を沿って、障害物の陰を抜けて、水樽の裏を回り、武器台の下を潜り抜け、ありとあらゆる場所を使って——ただひたすら逃げていた。
靴底がすり減る音が聞こえた気がした。足の裏が熱い。爪先が痺れている。
背後で、精鋭たちの怒号が聞こえる。
「回り込め! 左を塞げ!」
「駄目だ、動きが読めない! 予測した場所にいない!」
「くそ、また躱された——!」
読めないのは当然だった。ヴァルゼン自身にも、自分がどこに逃げるか予測できていない。恐怖で頭が真っ白になっており、体が勝手に動いているだけだった。右に行こうとして左に行く。止まろうとして加速する。身体が本能で、最も危険の少ない方向を選んでいる。
(死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ! 当たったら死ぬ! 木剣って言ってたけど絶対あれ普通の木じゃない! 鉄みたいに重い音してた! あれ食らったら骨折じゃ済まない!)
観覧席では、異様な空気が広がっていた。
将軍ガルヴァスが、腕を組んで微動だにしない。その目は、演習場を走り回るヴァルゼンの一挙手一投足を追っている。
「……信じられん」
副官が呟いた。
「あれは——第一訓練場の精鋭二十名ですぞ。一人として触れられていない」
「わかっている」
ガルヴァスの声は低かった。
「だからこそ信じられん。あの動きは——戦闘機動ですらない。あれは……何だ」
隣に座る軍の参謀が、額の汗を拭いた。
「パターンがないのです。通常の回避行動には癖がある。左に逃げる傾向、壁際を使う傾向、フェイントの頻度——そういった予測可能な要素が、彼には一切ない」
「つまり?」
「パターンがないことが、パターンになっている。精鋭たちは読もうとすればするほど外れる。——変幻自在としか言いようがありません」
ガルヴァスが唸った。
(変幻自在。本人は全力で逃げているだけだろうに。だがそれは——戦術の極致でもある)
演習場では、精鋭たちの疲労が目に見えて蓄積していた。走り続けているのは彼らも同じだ。しかもヴァルゼンと違い、武器を振るいながらの追走だ。重い木剣を何十回も空振りし、体力を削られていく。
一方のヴァルゼンは——もはやフラフラだった。
足がもつれ、走り方が蛇行している。真っ直ぐ走れない。壁にぶつかりそうになり、反射的に方向を変え、転びかけて体勢を立て直し、またよろめく。
「あの動き……」
参謀が息を呑んだ。
「酔拳のような——いや、違う。あれは意図的に軸をずらしている。重心の位置が一瞬ごとに変わっている。追う側は、次の一歩がどこに出るか全く予測できない」
(予測できないのは僕も同じだ。足がもう言うことを聞かないだけだ)
ヴァルゼンは壁際まで追い詰められた。背中に石壁の冷たさを感じる。正面から五人の精鋭が迫ってきた。
(詰んだ。今度こそ詰んだ。逃げ場がない)
恐怖で視界が狭くなった。五人の足運びが——なぜか、スローモーションに見えた。
(あ。左の人が踏み込むのが一瞬早い。右の人は半歩遅れてる。真ん中の三人は同時に振り下ろすけど、その前に左の人と右の人の間に隙間ができる——)
身体が勝手に動いた。
左の精鋭が踏み込む瞬間、その足元に向かって滑り込んだ。精鋭の木剣が空を切り、ヴァルゼンは転がるように隙間を抜けた。
背後で五人の木剣が交錯した。空振り同士がぶつかり、がらんと鳴った。
観覧席が、どよめいた。
「今のを見たか」
「五人の同時攻撃を——あの一瞬で全員の動きを読み切って——」
「化け物だ……」
ヴァルゼンは演習場の反対側まで転がり、四つん這いで立ち上がった。
(生きてる。まだ生きてる。心臓が壊れそうだけど生きてる)
エルヴィンが観覧席で拳を握っていた。
「すごい……すごいぞヴァルゼン……! あの回避、俺にも真似できない……!」
(真似しないで。お願いだから真似しないで。あれは芸でも技でもない。恐怖に突き動かされた生存本能だ)
模擬戦は——終わらなかった。
精鋭たちの目が変わっていた。最初の「魔王の実力を測る」という冷静さは消え、代わりに——純粋な闘志が灯っている。一発も当てられないことへの意地。プライド。
ヴァルゼンは走り続けた。走る以外にできることがなかった。
だが——その「走る以外にできることがない」が、結果として「どんな精鋭でも捕まえられない」という事実を積み上げていく。
観覧席の貴族が呟いた。
「逃げる魔王は——捕まらない」
その言葉が、静かに広がっていった。
エルヴィンの横で、フェリクスが手帳に書き込んでいた。
「回避率——百パーセント。被弾数——ゼロ。経過時間——推定一時間半。これは——もはや統計的に偶然では説明できない」
グリゼルダが静かに呟いた。
「あの壁際の回避。五人の同時攻撃を、最小の動きで抜けた。あれは——私にもできるかどうかわからない」
ミラベルが祈るように手を組んでいた。
「ヴァルゼン様……どうかご無事で……」
(無事じゃない。心臓が限界だ。足が言うことを聞かない。でも——止まったら当たる。当たったら死ぬ。だから走る。走るしかない)
訓練場の砂煙の中を、ヴァルゼンは走り続けた。
逃げる魔王は——まだ、捕まらない。
模擬戦はなおも続く。ヴァルゼンの足がいつ止まるかは——本人にもわからなかった。




