外交使節団、出発す
外交使節団、出発す
出発の朝は、快晴だった。
王都の南門前に、十六名の使節団が整列していた。宰相ルドヴィークが率いる外交官七名、護衛の騎士四名、書記官二名、そして勇者パーティ——エルヴィン、フェリクス、グリゼルダ、ミラベルと、ヴァルゼン。ザガンは「陛下の留守中は私が情報を整理しておきます」と王都に残った。
馬車は三台。先頭が護衛用、中央が宰相とヴァルゼン用、後方が随行員用。
(真ん中の馬車。宰相と同じ馬車。なんで。なんで僕が宰相と同格の扱いなの)
「当然です」
フェリクスが馬車に乗り込みながら言った。
「この使節団における序列は、宰相閣下が第一席、あなたが第二席です。外交の場において、魔王の肩書きは国家元首に準じますから」
(準じないでほしい。準じなくていいから。荷台に乗せてくれればそれでいい)
馬車が動き出した。
王都の喧噪が遠ざかり、街道の景色が流れ始める。国境の町までは五日の道のりだという。ヴァルゼンの胃は、既にその五日分の緊張で重くなっていた。
馬車の中には、ヴァルゼンとフェリクスが向かい合って座っていた。宰相は先頭の馬車で護衛と打ち合わせ中だそうだ。
「ヴァルゼン殿。道中、隣国ガルディアについて基礎知識をお伝えしておきましょう」
フェリクスが手帳を開いた。
「ガルディアは我が国の南方に位置する軍事国家です。大戦後、国境線の確定を巡って摩擦が生じています。具体的には、国境地帯のリンデン渓谷の帰属問題です」
「リンデン渓谷……」
「大戦中に両国が共同で魔王軍——失礼、旧魔王軍の一部を撃退した戦場です。戦後、双方が『自国の犠牲で守った土地だ』と主張している」
(ちょっと待って。旧魔王軍。つまり元々は僕の——名目上の——配下だった軍が暴れた場所ってことか。僕が原因の一部じゃないか)
胃が痛くなった。
「なお、ガルディアの代表は外務卿アデルハイト。切れ者と名高い女性で、交渉では一歩も引かないことで知られています」
(切れ者。一歩も引かない。もう帰りたい)
馬車が揺れるたびに、ヴァルゼンの不安も揺れた。
午前の街道は穏やかだった。初夏の陽光が木々の葉を透かし、鳥のさえずりが聞こえる。もしこれが遠足なら最高の天気だ。遠足ではなく外交だが。
昼過ぎ、馬車の揺れが心地よくなってきた。
フェリクスのガルディア講義は続いていたが、情報量が多すぎてヴァルゼンの頭は飽和していた。軍事力、経済構造、政治派閥、主要な貴族の名前と人脈——一時間で一学期分の講義を詰め込まれた脳が、処理を放棄した。
ヴァルゼンの瞼が、ゆっくりと落ちた。
頭が傾き、肩がずれ、やがて馬車の壁に凭れかかった。
——寝た。
完全に寝た。外交使節団の第二席が、隣国との紛争調停に向かう馬車の中で、ぐっすりと眠りに落ちた。
フェリクスが説明を止めた。
モノクルの奥で目を細め、眠るヴァルゼンをしばらく観察した。
やがて、静かに手帳に書き込んだ。
「——緊張する我々とは違い、この方にとっては国家の命運すら日常の一コマなのだろう。あるいは、既に全ての結末を見通しているがゆえの安息か。いずれにせよ、この胆力は人間には到達できない領域だ」
フェリクスはそう記録すると、自分も静かに手帳を閉じた。
馬車が止まったのは、夕刻だった。
街道沿いの宿場町で一泊する手はずだ。ヴァルゼンは止まった衝撃で目を覚ました。
「あ——寝てた。すみません、フェリクスさん、途中から全然聞いてなくて——」
「お気になさらず。むしろ、あの状況で眠れるあなたの精神力に感服しています」
(精神力じゃない。情報量が多すぎて脳が停止しただけだ)
宿場町の旅籠で、使節団は夕食を囲んだ。
宰相ルドヴィークがヴァルゼンの隣に座った。
「ヴァルゼン殿。道中はいかがだったかな」
「あ、はい、その……快適でした」
(半分寝てたけど)
「それは結構。明日からは山道に入る。少々揺れるが、ご容赦願いたい」
ルドヴィークが料理に手をつけながら、世間話のように言った。
「ガルディアのアデルハイト外務卿は、なかなかの強敵でな。前回の交渉では、こちらの提案を十七回も突き返された」
(十七回。十七回突き返される交渉って何。それもう交渉じゃなくて戦争じゃないの)
「ですが今回は——あなたがいる」
ルドヴィークの声が、ほんの少しだけ力を帯びた。
「魔王が使節団にいるという事実は、隣国にとっても無視できません。あなたの存在そのものが、我が国の交渉力を底上げしてくれる」
(僕の存在が交渉力。嘘だろう。ゴブリンより弱い男の存在が、一体何の交渉力になるんだ)
エルヴィンが向かいの席で豪快に肉を食いちぎりながら割り込んだ。
「宰相閣下。ヴァルゼン殿の力は、戦場だけのものではありませんぞ。交渉の場でも、きっとすさまじいものをお見せになるはずだ」
(見せるものが何もないんだけど)
「ほう。勇者殿もそうお考えか」
「確信しています! この方は——人の心を動かす力をお持ちだ。剣では届かない場所に、言葉で——いや、存在で届く」
エルヴィンの碧い瞳が真っ直ぐにヴァルゼンを見た。揺るぎない信頼が、そこにあった。
(エルヴィン……。その信頼が重い。ものすごく重い。嬉しいけど、重い)
グリゼルダが黙って頷き、ミラベルが微笑んだ。
ルドヴィークがそのやり取りを見て、微かに口元を緩めた。
「見事な臣下をお持ちだ。——いや、仲間か」
「仲間です」
それだけは——迷わず言えた。
ヴァルゼンの声は小さかったが、ルドヴィークの耳にはしっかりと届いていた。
「……なるほど」
老宰相は、何かを確信したように頷いた。
夜。宿の部屋で、ヴァルゼンは天井を見上げていた。
(あと四日で国境の町に着く。そこで、ガルディアの代表と顔を合わせる。切れ者の外務卿と)
布団を頭まで被った。
(僕にできることなんて、何もない。何も——)
眠れないかと思ったが、昼に馬車で眠った分を差し引いても、緊張が体力を削っていた。
ヴァルゼンは、不安を抱えたまま眠りに落ちた。
そしてその寝顔を、廊下を巡回していた護衛の騎士が偶然目撃した。
「……安らかなお顔だ。この方にとって、国境紛争など小事に過ぎぬのだろう」
ヴァルゼンの評価は、眠っているだけで上がり続けた。




